弱肉強食の戦国時代、由緒正しき名門というだけでは生き残れず、多くの大名家が滅び去っていきました。

「負けに不思議の負けなし」とはよく言ったもので、負けるからには必ず原因があるものですが、それは往々にしてリーダーの資質、ここでは「大名が無能だったせいだ」と安直に片づけられてしまいがちです。


守護大名として駿河・遠江・三河の三ヶ国(現:静岡県東部~愛知県西部)を支配しながら、一代で失ってしまった今川氏真(いまがわ うじざね)は、桶狭間の合戦で「油断して」討ち取られてしまった「公家かぶれ」の父・今川義元(よしもと)ともども軟弱なイメージがついてしまっています。

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「海道一の弓取り」と恐れられた名将・今川義元の雄姿。Wikipediaより。

近年の研究(と言うより、そもそもの記録など)から義元の名誉は回復されつつあるものの、御家を滅ぼして(大名としての地位を失って)しまった氏真については、どうしても「ボンクラ息子」のイメージが根強い印象です。

しかし、敗れた者が必ずしも無能だったとは限りません。今回は、そんな今川氏真の文武両道エピソードを紹介したいと思います。

■剣豪・塚原卜伝に鹿島新当流剣術を学ぶ

今川氏真が和歌や蹴鞠など、主として文化方面に通じていたことは有名で、そのことも父同様の「公家かぶれ」イメージに一役買っているのでしょう。

意外と文武両道だった?軟弱なイメージの今川氏真、実は剣術の心得もあった


剣豪・塚原卜伝。Wikipediaより。

ただし、それは武芸に疎いことと必ずしもイコールではなく、氏真は剣豪・塚原卜伝(つかはら ぼくでん)から鹿島新当流(かしましんとうりゅう)剣術の手ほどきを受けていたそうです。

もちろん、学んだことがあるからと言って奥義を究めたとは限らず、単なる旦那芸(※)や、あるいはただ卜伝の演武を観覧しただけ……という可能性も否定はできません。
(※)スポンサーに取り入るため、指導や採点を甘くして与えられた免許・技能など。


また一説には、剣術を極めて今川越前守義真(えちぜんのかみ よしざね)と名前を変え、新たな流派「今川流」剣術を興したとも言われますが、この人物は今川氏の庶流(分家)ですから、嫡流(本家)の氏真とは別人物のようです。

「ぜぇ、はぁ……なんでワシまで剣術など……」

「いけませんぞ、若。高貴なご身分なればこそ、ご自身を守るすべも学ばれませぬと……」

「そうは言うても越前よ、ワシは、ワシはもうダメじゃ……」

「……仕方ありませんな。今日のところは甘めにして、あと素振り千回と致しましょう」

「どこが甘めなんじゃあ~、ひぇぇ……」

この義真は生没年不詳であり、また今川流と鹿島新当流との関係も不明のため、ハッキリとは言えませんが、もしかしたら氏真と一緒に卜伝の指導を受けていたのかも知れませんね。

■エピローグ

そんな文武両道?だった今川氏真ですが、優秀さが必ずしも成功に結びつかないのが、人間社会の不条理というもの。

能力はあっても人望には乏しかったようで、家臣の離反が相次ぐと共にかつての盟友・武田信玄(たけだ しんげん)の裏切りもあって国を追われることとなり、その後、同じく盟友であった北条(ほうじょう)氏やかつて臣下であった徳川家康(とくがわ いえやす)の庇護を受けて命脈を保つのでした。

「やれやれ……やっぱりワシは荒事より、雅びやかな生き方のが性に合うわい」

晩年の氏真は、江戸幕府を開いた家康の元をちょくちょく訪ねては昔話に花を咲かせた(愚痴を聞かせた?)そうですが、話題の中心は歌道に関することだったそうです。

意外と文武両道だった?軟弱なイメージの今川氏真、実は剣術の心得もあった


『集外三十六歌仙』にその名を連ねる今川氏真。Wikipediaより。

家康としても、ろくすっぽ実戦経験もない生半可な剣術の心得など聞かされるより、まだ歌道の方が聞き甲斐もあったのでしょう。

とは言っても、あまりの長話にうんざりした家康は、江戸城から少し離れた品川に屋敷を与えたと言います。

「ワシも若い頃は、剣術など少しは嗜んだものじゃが……」

「はいはい……」

剣術の心得があったなんて、「公家かぶれ」キャラな氏真にしてはちょっと意外ですが、やっぱり氏真は氏真だったような気がしないでもありませんね。


※参考文献:
山田忠史ら編『武芸流派大事典』新人物往来社、1969年1月
笹間良彦『図説日本武道辞典』柏書房、2003年5月
戦国史研究会 編『論集 戦国大名今川氏』岩田書院、2020年5月

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