時は江戸時代末期の慶応3年(1867年)、大政奉還(政権を朝廷に返上すること)によって二世紀半余の天下に終止符を打った徳川幕府。

「かくして頼朝公の鎌倉開府より700年以上にわたる『武士の世』が終わりを告げ、新政府による近代国家への歩みが始まったのであった……」

歴史の結果を知っている現代の私たちは、当然のようにそう考え、当時の人々もそう考えていただろうと考えがちです。


しかし、中には「徳川幕府が倒れても、また別の幕府が始まるだけ=武士の世が終わる訳ではない」と考えていた者も少なからずいたと言います。

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島津忠義(天保11・1840年生~明治30・1897年没)。Wikipediaより。

今回はそんな一人、最後の薩摩藩主・島津忠義(しまづ ただよし)のエピソードを紹介。果たしてどんなビジョンを描いていたのでしょうか。

■薩摩藩主の家督を継承

島津忠義は天保11年(1840年)4月21日、島津分家の当主・島津久光(ひさみつ)の長男として誕生します。幼名は壮之助(そうのすけ)、元服して又次郎(またじろう)、最初の諱は忠徳(ただのり)と称しました。

19歳となった安政5年(1858年)、忠徳は主君に当たる伯父・島津斉彬(なりあきら)の子・島津哲丸(てつまる。2歳)を後見するため斉彬の養子となります(その直後、斉彬は7月16日に死去)。

徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断


実父・島津久光(左)と養父・島津斉彬。Wikipediaより。

しかし哲丸はまだ幼く、また病弱であったためか家督はそのまま忠徳が継ぐこととなり、同年12月28日、正式に家督を継いだ忠徳は第14代将軍・徳川家茂(とくがわ いえもち)から一文字を授かって島津茂久(もちひさ)と改名しました。


※ちなみに、哲丸はその直後の安政6年(1859年)1月2日に死去。もはや用済みとばかりに消されてしまったのでしょうか。

こうして薩摩藩主となった茂久でしたが、まだ若いこともあって、政治の実権は養祖父の島津斉興(なりおき)や父の久光らが握っていたと言います。

■戊辰戦争で海陸軍総督を拝命するも……

さて、そんな茂久率いる薩摩藩は、大政奉還によって天下の政権を返上し、将軍家から一雄藩に成り下がった徳川慶喜(よしのぶ。元第15代将軍)が新政府に参画することを認めず、あくまで討ち滅ぼす方針でした。

明けて慶応4年(1868年)1月3日、徳川討伐(戊辰戦争)の火蓋が切って落とされた鳥羽・伏見の戦いに勝利、慶喜が大阪から江戸へ逃げ帰ると、これを追うべく東征の兵を興します。

これに際して、茂久は朝廷より海陸軍総督(かいりくぐんそうとく)を拝命。これは文字通り海軍と陸軍を統べるトップ(督-かみ。長官)で、武門の誉(ほまれ)としてこれにまさるものはありません。

「我が島津家は源氏の末裔(※)……なれば、源氏の棟梁として征夷大将軍の位に就き、徳川に成り代わって天下に号令しようぞ!」

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頼朝公の落胤だった?島津氏の祖・惟宗忠久。Wikipediaより。

(※)島津家の祖・惟宗忠久(これむね ただひさ)は源頼朝(みなもとの よりとも)の庶子との説(≒島津家による主張?)があります。


※参考:鎌倉にある忠久の墓と、島津氏の主張

一体どういうこと?源頼朝のお墓になぜか刻まれた薩摩藩主・島津氏の家紋「轡十文字」の謎

「徳川の次は、島津公の天下!海陸軍総督はその足がかり……いやまったくめでたい限りじゃ!」

そのような声が薩摩藩内に沸き起こり、また新政府軍の中でも少なからず島津家による尊皇攘夷の主導を支持する声があったとか。

薩摩一国の主から、ゆくゆくは天下の将軍に……そう聞いてまんざらでもなかったであろう茂久を諫めたのが、かの西郷隆盛(さいごう たかもり)でした。

■西郷の説得で海陸軍総督を辞退

「……何じゃ西郷、興ざめな」

「聞けば海陸軍総督をご拝命とか……今すぐご辞退下され」

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茂久を説得する西郷(イメージ)。Wikipediaより。

「何ゆえぞ。せっかく天朝(てんちょう。朝廷)様より兵馬の権を頂戴し、天下に号令できる又とない好機に……」

「古来『盛者必衰(しょうじゃひっすい)』と申します。今は勢いがある我ら薩摩も、驕りが過ぎれば周りはみな敵となり、やがては徳川のように滅び去るのです」

「ふむ」

「その薩摩の勢いにしても、我らが『天下の政道を御一新仕る』という大義を錦の御旗に掲げればこそ、諸藩も合力してくれるのです。それがただ『島津が天下を奪りたかっただけ』となれば、彼らはこぞって敵となり、戦国乱世に逆戻りでしょう」

「まぁ、そうなるやも知れぬな」

「これからは島津が勝った、徳川が負けたなどと小さく争っている場合ではなく、日本国が一丸となって力を合わせ、欧米列強と渡り合って行かねば立ち行かんのです」

「確かにのぅ」

「なれば、家中の者どもに要らぬ野心を呼び起こさせる肩書などはご辞退なされ、あくまで皆々と共に天朝様をご扶翼(ふよく。助け支える)仕るお立場を明確になされませ」

「……相分かった」

かくして茂久は将軍=幕府を開く夢を諦め、一日で海陸軍総督を辞退したものの、朝廷としても「武門の後ろ盾がなくては困る」と茂久を陸海軍務総督(りくかいぐんむそうとく)に推薦。

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仁和寺宮殿下と岩倉具視。Wikipediaより。


陸海軍務総督は三頭体制で、武家代表として茂久のほか皇族から仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう。小松宮彰仁親王)、公家からは岩倉具視(いわくら ともみ)が選ばれ、茂久は一歩引いて二人を補佐したという事です。

■エピローグ

「何じゃ、徳川は滅ぼしても、幕府までなくすつもりはなかったんじゃがのぅ……」

明治維新が果たされた後、島津久光はよくボヤき……もとい公言していたそうです(島津幕府?の実現をよほど熱望していたのでしょう)。

せっかく徳川を滅ぼして、島津家に天下が巡って来たというのに、むざむざそれを手放そうとは……遠ざかりゆく「武士の世」を惜しみつつ、近代国家の建設に邁進していった島津忠義(明治維新後に改名)はじめ旧薩摩藩士たち。

徳川亡き後「第4の幕府」を狙った?幕末の薩摩藩主・島津忠義の野望と英断


ともあれ近代国家への道を歩みだした日本(イメージ)。Wikipediaより。

もしあの時、隆盛の反対を押し切って海陸軍総督に留任し、権力の階段を昇りつめて(鎌倉、室町、江戸につぐ)第4の島津幕府?が開かれていたとしたら……日本の歴史は大きく変わったことでしょう。

※参考文献:
芳即正『島津久光と明治維新 久光はなぜ、討幕を決意したか』新人物往来社、2002年12月
海音寺潮五郎『敬天愛人 西郷隆盛 三』学研プラス、2001年4月

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