■幼少期の細川政元
1466年、細川家の嫡男として産まれたのが細川政元で、幼名を「聡明丸」と言いました。
政元の父「細川勝元」が、「この子がいれば細川家は安泰だ」と言い残しこの世を去るほど、名前どおりの聡明な子供だったそうです。
しかし、のちに政元は、「戦国三大愚人」の1人に数えられます。
その過程に「魔術」も出てきますので、詳しくみていきましょう。
■政元が権力を握るまで
政元は父の死後、8歳の時に家督を引き継ぎますが、まだ幼かったため実際には権力を持っていませんでした。
21歳の時に初めて家督としての実権を得た政元は、当時の室町幕府9代将軍・足利義尚と共に幕府に反抗的だった勢力「六角行高」の討伐に向かいます。
しかし、その途中で義尚が病死してしまったことで後継者問題が勃発。
政元は義尚の親戚にあたる「足利義澄」を推しましたが、政元とは違った考えをもっていた対抗勢力の日野富子や畠山政長の後押しが強く、「足利義材」が10代将軍となります。
そのことに不満を持った政元は、1493年に「明応の政変」と呼ばれるクーデータを起こし、義澄を11代将軍の座に押し上げました。
そして政元は、お飾り将軍・義澄の代わりに実権を握り、「半将軍」と呼ばれるようになったのです。
■政元の奇行の数々

半将軍として幕府の実権を握った政元ですが、空飛ぶ天狗の話を聞いてから「自分も空を飛びたい」と思い、周囲の人からすれば首を傾げるような「修行」に励みはじめます。
天狗になるために修行していた政元は、40歳まで女人禁をうたい、「制飯綱の法」や「愛宕の法」の鍛錬を欠かさず、山伏のように修行し、経を唱えていたと言います。「飯綱の法」や「愛宕の法」とは現代で言う妖術や魔法と呼ばれるものでした。
真実は定かではありませんが、日々鍛錬していた政元は、その類の魔術が使えたと言います。そして、魔法半将軍とも呼ばれたようです。
そんな政元の奇人ぶりを揶揄してか、政元邸では「夜中に怪鳥が出現する」「生首が浮いて見えた」などという、気味の悪い噂が絶えませんでした。
■政元の最期
ひたすら「天狗」への道を諦めなかった政元は、女人禁制を厳しく守っていたため、奥さんも子供もおらず、2人の養子をもらいます。
しかし、政元の後継を巡って2人の養子がもめてしまい、細川家を分裂させる大きな内紛がおこってしまうのです。
天狗の修行を積み、魔術が使えると噂された政元でしたが、入浴中に暗殺されてしまうという、何とも呆気ない最期を迎えるのでした。
■夢叶わず?
政元の後半の人生は、「天狗」に費やしたと言っても過言ではありません。真面目に修行をしていたものの、天狗のように空を飛ぶ夢叶わず、入浴中に暗殺されてしまいました。
もしかしたら暗殺されたのではなく、政元の魔術で魂だけが天狗となり、後継者争いなどのしがらみから解放されて大空に旅立ったのかもしれませんね。
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