時は戦国乱世、激しい争いは血を分けた親子兄弟であろうと関係なく繰り広げられ、まさに血のりが乾く暇もなかったと言います。

心ならずも肉親を討たねばならない悲劇は、後に中国地方の覇者となった毛利元就(もうり もとなり)も味わっており、生き延びるためとは言え、辛い決断であったことでしょう。


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弟の屍を乗り越え、中国地方の覇者となった毛利元就。Wikipediaより。

今回は兄の手で討たれた悲劇の戦国武将・相合元網(あいおう もとつな)のエピソードを紹介したいと思います。

■今義経と称された若武者ぶり

相合元網は安芸国(現:広島県西部)の領主・毛利弘元(ひろもと)の三男として誕生。兄の毛利元就たちとは別腹(元就たちは正室の子)で、母・相合大方(おおかた。御方)の実家を継いで(あるいは相合の地を与えられ)相合と称します。

別名は少輔三郎(しょうゆう さぶろう)、または相合四郎(しろう)と言うそうですが、少輔とは官位(ランク)であって官職(ジョブ)が併記されていない(※)ため、恐らく毛利家中で勝手に(朝廷の許可を得ず)与えた官途名(私称)でしょう。

(※)通常は治部少輔(治部が官職)などと官職+官位で称します。もちろん併記されていても官途名であることが多々あります。

また、三男なのに相合四郎とは、継いだ先の相合家ではすでに三人の子(男女は不明)がいて、四番目の子として入った元網が男性であるから四郎と呼ばれたのかも知れません。

そんな元網は今義経(いまよしつね)とも呼ばれていたそうで、かの源平合戦(平安時代末期)の英雄・源義経(みなもとの よしつね)の再来を意味しますが、いったい何が共通していたのでしょうか。

まさに源義経の再来!毛利元就に討たれた悲劇のイケメン戦国武将・相合元網のエピソード


美男子として人気の義経。
Wikipediaより。

義経と言えば(1)天才的な軍略(2)軍記物語で謳われる美貌(3)悲劇的な最期……などで有名ですが、(1)はこれといった実戦経験も見られず、(3)も元綱がまだ生きているため、恐らく(2)の美貌で評判だったものと考えられます。

(実際の義経はそれほど美男子でもなかったそうですが、こういうものはイメージが大事なのでしょう)

「おぉ、三郎様……九郎御曹司(義経)もかくやとばかりと若武者ぶりにございますな!」

ゆくゆくは立派に成長し、兄・元就の覇業を助けて大活躍……そんな将来を嘱望されながら、その兄に討たれて(3)も満たしてしまったのは、皮肉と言うよりありませんでした。

■宿老・坂広秀らに担がれ……

元網が討たれたのは大永4年(1524年)4月8日、兄・元就の家督相続に反対した坂広秀(さか ひろひで)、勝元忠(かつ もとただ)らが「三郎殿こそ毛利の後継者に相応しい!」と元網を担ぎ上げたことによります。

元就としては、かねて元網を自分の立場を脅かす存在として警戒していたのか、生かしておけぬとこれを粛清。若い命(※)を散らせてしまったのでした。

(※)元網の生年は不明ですが、明応6年(1497年)生まれの兄・元就より年下で、かつ幼い嫡男(当時1~9歳?)がいたことを考えると、明応7年(1498年)から永正2年(1505年)ごろまでには生まれていた(享年20~27歳)と考えられます。

しかし、元網を担いだ坂広秀は、その前年に元就の家督相続を要請する宿老15名の連署に名を連ねており、たった1年で手のひらを返す態度はどうしたことでしょうか。

このクーデター未遂には出雲国(現:島根県東部)の尼子(あまご)氏や石見国(現:島根県西部)の高橋(たかはし)氏が関与しており、元就よりも都合のよさそうな元網を担がせて毛利家を両断し、内紛を起こさせる狙いがあったとも言われています。

坂広秀が翻意したのは、何かよんどころない事情(例えば尼子らの謀略など)があって引くに引けなくなってしまい、一縷の望みを賭けて十分な準備もないまま挙兵に踏み切ろうとしたのかも知れません。

まさに源義経の再来!毛利元就に討たれた悲劇のイケメン戦国武将・相合元網のエピソード


元綱の壮絶な最期(イメージ)。

「兄上……!」

まだ幼かった嫡男だけは連座を免れて助命され、後に敷名元範(しきな もとのり)と改名して大笹山城主(広島県三次市)、旗返城主(同)など歴任。
毛利兵部太夫(ひょうぶだゆう)とも呼ばれ、その血脈を後世に伝えたのでした。

※参考文献:
河合正治『安芸 毛利一族』新人物往来社、1984年11月
河合正治 編『毛利元就のすべて』新人物往来社、1986年9月

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