戦国時代、飛騨国(岐阜県北部)の一宮・水無神社(みなしじんじゃ)の宮司でありながら領民のため、戦国大名・姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)の妹婿=武士になることを選んだ三木国綱(みつき くにつな、刑部大輔)。
北に上杉(うえすぎ)、南に織田(おだ)と大勢力に挟まれながら生き残りを模索する中、頼綱の命により、織田との同盟に反対する嫡男・姉小路信綱(のぶつな)らを粛清して飛騨国の統一を目指すのでした……。
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武士も天下も興味はないが…心ならずも領民のために闘った戦国武将・三木国綱【上】
■飛騨統一の悲願を果たすも……
その後、本能寺の変(天正10・1582年)で織田信長(おだ のぶなが)が横死すると、にわかに織田領内は混乱に陥り、その余波は飛騨にも及びます。
謀叛の業火に消えた信長。揚洲周延「織田信長 安田作兵衛」
「よし!この混乱に乗じて飛騨一国を制圧するぞ!」
頼綱は攻め込んで来た江馬輝盛(えま てるもり。常陸介)を返り討ちにしたほか、牛丸親綱(うしまる ちかつな。又右衛門)、広瀬宗域(ひろせ むねくに。山城守)と、飛騨国内の有力者を次々に撃破していきました。
ただし、頼綱の手口は「手強い者から順番に倒し、用済みとなった者から切り捨てていく」スタイル。
例えば、江馬輝盛を倒すために牛丸親綱と力を合わせ、用済みになったら親綱を倒し、その次は親綱を倒すために組んでいた広瀬宗域を倒し……というやり方で、いくら反復常なき戦国乱世とは言え、あまりのエグさに頼綱は大いに梟雄たる名を高めます。
「それもこれも、飛騨一国を安寧ならしめんがため……!」
一連の謀略は国綱が糸を引いていたとも言われますが、とにもかくにも天正11年(1583年)ごろには飛騨統一の悲願を果たしたのでした。
ここまで基盤を固めれば、後は織田政権の跡目争いが収まるのを待って、本領安堵と引き換えに織田の後継者へ臣従すればよかろう……頼綱は家督を嫡男の姉小路秀綱(ひでつな。大和守)に譲って隠居。

織田家の跡目争い。
国綱は引き続き秀綱を補佐しながら飛騨国内の整備に当たっていましたが、織田政権の跡目争いに首を突っ込み、姉小路家は信長の三男・織田信孝(のぶたか)を推したため、信長の嫡孫・三法師(さんぽうし。織田秀信)を推す羽柴秀吉(はしば ひでよし)の軍勢に攻め込まれてしまいます。
「おのれ、飛騨一国を差し出すと言うても聞かぬか……ならば是非もなし、者ども、迎え撃つぞ!」
時に天正13年(1585年)、後世に言う「飛騨征伐」敵の大将は金森長近(かなもり ながちか)。かつて頼綱に滅ぼされた敵対勢力の残党(飛騨牢人衆)を先鋒に押し立て、旧領を奪還せんと士気旺盛です。
「今こそ父祖伝来の領地を取り戻す好機!」
「何を未練がましい……飛騨は一つにまとまらねばならん。それがなぜ解らぬか!」
「ならば、我らがとって代わるまで!」

陥落する松倉城(イメージ)。
秀綱・国綱ら姉小路勢は本拠の松倉城(高山市)に集結し、数日にわたる籠城戦を繰り広げるも、やがて藤頼新蔵(ふじより しんぞう)らが内応して城内に放火、混乱した隙を衝いた金森勢の総攻撃によってあえなく陥落してしまいました。
■領民たちの嘆願によって助命され、武士を引退
「最早これまでか……!」
総大将の秀綱は壮絶に討死したとも、弟の鍋山季綱(すえつな)や親族の小島時光(こじま ときみつ)・小島基頼(もとより)らと落ち延びたものの、落武者狩りによって命を落としたとも言われています。
「勝敗は武門の常なれば、やむを得まい……斬れ!」
「そなたのために、多くの者たちが殺められた……八つ裂きどころか十六に裂いても足りぬわい!」
最後まで戦い抜いたものの、武運拙く捕らわれてしまった国綱は、これまで負った怨みの多さに観念しますが、金森勢の陣中に、領民たちが助命嘆願にやって来ました。

国綱の助命嘆願にやってきた領民たち(イメージ)。
「お願いにございます。宮司様もとい刑部様が、お侍として何をなさったのかは存じませぬ。
「わしら飛騨国に生きる者で、刑部様を慕わぬ者はおりませぬ。これから飛騨国を治められるのであれば、どうか刑部様の、わしらが宮司様のお命だけは、お助け下さいませぬか」
「うぅむ……」
もしここで国綱を斬ってしまえば、飛騨国の領民は永く抵抗を繰り広げよう。次々と届く助命嘆願の書状を見て、金森長近は飛騨牢人衆を説得して、出家を条件に国綱を赦免します。
「あぁ、良かった……」
出家した国綱は入道三澤(さんたく)と号しましたが、三は三木の名字から、澤は沢山(たくさん)、つまり「もう武士はたくさん(やりたくない)」をひっくり返した……とか(諸説あります)。

出家した国綱、改め入道三澤(イメージ)。
ところで、隠居していた頼綱はと言うと、国綱らとは別に難攻不落の高堂城(高山市)に籠城しており、よく敵を防いでいたものの、朝廷より停戦の勅命を受けて降伏。
秀吉にとって主君である織田信長の親族(※1)として助命され、公家(※2)ということで京都へ護送され、余生を過ごすことになります。
(※1)頼綱の妻は信長の舅・斎藤道三(さいとう どうさん)の娘であり、義兄弟(相婿)の関係に当たります。
(※2)姉小路家は飛騨国司の名門であり、実質奪い取ったとは言え、その家督がこういうところで役に立ったのでした(単なる地方豪族であれば、降伏の大義名分となる勅命も下りなかったことでしょう)。
かくして飛騨のやんごとなき?戦国大名・姉小路家は滅亡したものの、話はこれで終わりませんでした。
■エピローグ「飛騨の意地を思い知れ!」
「入道殿はご在宅か」
武士は辞めたものの、さりとて今さら水無神社の宮司に戻るわけにもいかない国綱は、人里離れたあばら家に隠棲していました。
「……何ぞ用か」
訪ねて来た顔ぶれは、江馬時政(えま ときまさ。

出家した国綱を訪ねた旧敵たち(イメージ)。
「昔の怨みでも、晴らしに来たのか」
「いや、実は折り入って頼みがあってな……」
「もはや世俗を離れた出家の身に何が出来るとも思えぬが、聞くだけは聞き申そう」
……彼らの話によると、金森長近は「姉小路征伐に味方すれば、旧領を安堵する」という約束をしたものの、いざ飛騨を占領すると「お前らの力などなくても勝てた」などと言いがかりをつけて約束を反故にしたと言います。
「それなら最初から約束などするなと……」
「……話は分かった。それで、わしに何をせぇと」
「我らが盟主となって、再び飛騨を取り戻していただきたい」
もうほとほと武士稼業に嫌気が差していた国綱ですが、聞けば新たに飛騨の国司となった金森一族は、従来の文化・習慣を踏みにじり、領民たちに苛政をしいているとか。
「……致し方あるまい。たとえ我らことごとく滅ぶとも、連中に飛騨の意地を思い知らせてくりょうぞ!」
「「「えい、えい、おぅ!」」」

最後の決戦に臨む国綱(イメージ)。
領民たちからの願いもあり、後世に言う「三澤の乱」が勃発。国綱ら飛騨牢人衆は叛乱の拠点を確保するべく、かつての居城・山下城を攻め立てましたが、衆寡敵せずあえなく全滅。
「どうか、飛騨の民を安んじて下され……!」
時は天正13年(1585年)、国綱は40歳の命を散らしましたが、これをキッカケに金森一族も飛騨国の統治姿勢を改めるようになったということです。
【完】
※参考文献:
岡村守彦『飛騨中世史の研究』戎光祥出版、2013年10月
谷口研語『飛騨 三木一族』新人物往来社、2007年2月
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