今回は、鎌倉幕府を開いた初代将軍・源頼朝(みなもとの よりとも)公の愛刀として知られる髭切(ひげきり)を紹介。
伝・頼朝公肖像。佩いているのは髭切か
髭切なんて聞くと何だかヒゲ剃りみたいですが、一体どんなエピソードがあるのでしょうか。
(※)髭切については似た名前の刀剣と混同されることがあり、史料によって説明が異なることも多いため、あくまで諸説ある中の一説としてまとめました。
■ヒゲごと首が斬れた鋭い切れ味
髭切は平安時代、頼朝公の七代祖先に当たる源満仲(みつなか)が、伯耆国(現:鳥取県西部)の刀工・安綱(やすつな。大原安綱)に作らせたと言います。
さて、鍛え上がった刀の試し斬りに、ちょうど斬罪人(死刑囚)がいたのでその首を斬ったところ、あごにたくわえていた髭までスッパリ切れたことから、その素晴らしい切れ味を伝えるべく「髭切」と命名されたのでした。

菊池容斎『前賢故実』より、源満仲。佩いている太刀は頼朝公のそれと似ているような?
こう聞くと「え?ヒゲなんて簡単に切れるでしょ?」と思うかも知れませんが、しっかり固定されておらず、ゆらゆらしているモノを切るのはなかなか大変です。
例えば髪の毛や糸などを垂らして、それをナイフや包丁などで切ろうとしても、なかなか上手く行きません。また、一本二本は何とか切れても、ヒゲのようにまとまっていると、後半は大抵切りそこねてしまうでしょう。
■美女に化けた鬼・茨木童子の腕を斬る
かくして髭切は満仲からその嫡男・源頼光(よりみつ)に受け継がれ、ある時、家臣の渡辺綱(わたなべの つな)にこれを貸し与えます。
「ちょっとお使いに行って来て欲しいのだが、最近、夜道に鬼が出没すると言うから、用心にこの髭切を持っていくがよい」
「ははあ」
さて、綱が夜道を歩いていると、美女がさめざめ泣いており、何事かと声をかけたところ、それこそが鬼の茨木童子(いばらきどうじ)で、綱の髪をわしづかみにさらって行こうとしたため、綱はすかさずその腕を斬り落としました。

歌川国芳「瀧口内舎人 渡辺綱 一條戻り橋の辺にて髭切丸の太刀を以茨木童子の腕を斬」
「いやはや、危ないところであった……」
鬼の腕を斬って命拾いしたことから、髭切は鬼切(おにきり。又は鬼丸)と改名。後に頼光と綱たち「頼光四天王」は鬼たちの総大将・酒呑童子(しゅてんどうじ)を退治することになりますが、そこでも大いに鬼を斬ったようです。
■獅子のように吠えた?
その後、鬼切は頼光⇒源頼基(よりもと。頼光の子)⇒源頼義(よりよし。頼基の従弟)⇒源義家(よしいえ。頼義の子)⇒源義親(よしちか。義家の子)⇒源為義(ためよし。義親の子)と代々受け継がれていきました。
ある夜のこと、この鬼切が獅子のような声で吠えたため、為義は鬼切を獅子ノ子(ししのこ)と改名したと言いますが、これが一体どういう理屈によるものかは不明です。

鬼切を受け継いだ源為義。白峯神宮蔵
また、どういう理由で(例えば、為義に何かを警告するため等)刀が吠えたとか、刀が吠えたから何がどうなったという説明もありません。
もしかしたら、例えば賊が侵入したところを斬りつけた刃の風切り音が獅子吼のようであった、とかそういう話だったのが、伝えられる内に詳細が抜け落ちた可能性もあります。
■友の小烏丸を斬り捨てた?
ところで、この獅子ノ子には吠丸(ほえまる。元は膝丸)というペアの刀があり、吠丸を娘婿に与えてしまったのを悔やんだ為義は、吠丸にそっくりな小烏丸(こがらすまる)という刀を作らせました。
(史料によっては獅子ノ子に似せて作られたともありますが、それだと吠丸を惜しんだことと矛盾します)

獅子ノ子と小烏丸(イメージ)
ある時、獅子ノ子と小烏丸を二振り並べて立てかけておいたところ、風もないのに突然二振りが倒れました。
不思議に思いながらも為義が立てかけ直すと、獅子ノ子よりも二分(約6mm)長く作られていたはずの小烏丸が、獅子ノ子と同じ長さになっています。
「これはきっと、獅子ノ子が小烏丸を切ったに違いない」
物理的にはあり得ませんが、ともあれ不思議なことが起きたものだと、獅子ノ子は友=小烏丸を斬った友切(ともきり)と改名されたのでした。
■八幡大菩薩から苦情?結局、元の髭切に
友切は源氏重代の家宝として為義から嫡男の源義朝(よしとも)へ受け継がれたものの、平治の乱で平清盛(たいらの きよもり)に連戦連敗。

『平時物語絵巻』より、敗走する源義朝ら
「かつて八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御加護を得て作られた、源氏代々の宝刀を持っていながら、何というザマだろう。もはや武運も尽きたのか!」
義朝がぼやいていると、八幡大菩薩が啓示を与えます。
「……何を申すか。古来『名は体を表す』と言うであろう。そなたらがコロコロ名前を変えるから、そのたびに神通力が弱まっておるのだ。
そこで義朝は急いで?刀の名を元の髭切に戻し、嫡男の頼朝公に与えたところ、その神通力は次第に回復。
20年の歳月を経て、ついに頼朝公は挙兵して平氏政権を討ち滅ぼし、源氏の棟梁たる征夷大将軍として鎌倉に幕府を開いたのでした。
■エピローグ
髭切から鬼切、そして獅子ノ子、友切、そして再び髭切に……以来、二度と名前が変えられることはなく、代々の鎌倉将軍家から幕府の滅亡時に新田義貞(にった よしさだ)の手に渡り、さらに新田氏を滅ぼした足利尊氏(あしかが たかうじ)の一門・斯波(しば。後の最上)氏に奪われました。
その後、戦国乱世を経て天下人となった刀剣コレクター・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の求めにも応じることなく髭切を守り続け、武士の世も遠く過ぎ去った大正時代になって、京都の北野天満宮へ奉納、現代に至ります。
何度も名前と持ち主を変えながら、現代に伝えられる名刀・髭切。実に色々なモノを斬って来ましたが、これからもその美を鑑賞する宝物として、次世代へ受け継がれて欲しいものです。
※参考文献:
小和田泰経『刀剣目録』新紀元社、2015年6月
関幸彦『英雄伝説の日本史』講談社学術文庫、2019年12月
三浦竜『日本史をつくった刀剣50』河出書房新社、2020年1月
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