その丹波(たんば)が、武功一等を示す皆朱(かいしゅ)の槍を許されている。剛強無双を自負する和泉(いずみ)にとっては許しがたいことであった。戦国時代、戦さにおいて武功を立てることは武士にとって何よりの名誉であり、家中において最も優れた者にはそのことを示す皆朱の槍(朱槍)が許されたと言います。(66ページ)
「腕で来い。朱槍(しゅやり)の真の主が柴崎和泉だと、おもい知らせてやらあ」
和泉はそう吠えるや、どっと馬を駆った。(154ページ)
※和田竜『のぼうの城』より(ルビは引用者による)
皆朱とは穂先を除くすべての部分が朱で染められた状態を意味し、その所持が許されたのは原則として家中でただ一人。だから柴崎和泉(柴崎和泉守敦英)は丹波(正木丹波守利英)に対抗心を燃やしていたのです。
皆朱の槍(イメージ)
さて、実際の丹波が皆朱の槍を許されていた記録は見当たりませんが、他に武功一等の武将が朱槍を許された例はあるのでしょうか。
今回はそんな戦国時代の朱槍事情について調べたので、紹介したいと思います。
■天下御免の傾奇者・前田慶次の痛快なエピソード
朱槍と言えば有名なのが、天下一の傾奇者(かぶきもの)として知られた前田慶次(まえだ けいじ。利益)。

落合芳幾『太平記拾遺』より、前田慶次郎利丈(利益)
小説『一夢庵風流記』やマンガ『花の慶次』で人気の高い慶次は、上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の客将となった際、その朱槍に抗議した者たちがいたそうです。
「前田殿は、いったい当家にいかなる武功あって皆朱の槍を許されているのか?」
ここで普通なら「郷に入っては郷に従え」で朱槍を遠慮するのでしょうが、そこは腕に覚えの前田慶次。
「何だよ、ケチくせぇ。
とばかり、景勝に頼んで全員朱槍を持たせてもらったのでした。こうなっては抗議した者たちも退くに退けず、みんな必死に戦ったということです。
真偽のほどはともかくとして「慶次(アイツ)ならやりかねない」という期待感が、実に痛快なエピソードですね。
■返り血びっしり!生涯で93の首級を上げた長坂信政
他にも朱槍の持ち主として知られているのが、血鑓九郎(ちやりくろう)の二つ名を与えられた長坂信政(ながさか のぶまさ)。

橋本貞秀『徳川東国武勇伝』より、長坂血鑓九郎(右)
徳川家康(とくがわ いえやす)の祖父・松平清康(まつだいら きよやす)の代から3代にわたって仕えた忠臣で、数々の戦さにおいて槍が血に濡れていないところがなかったほどの活躍から、朱槍を許されたということです。
やはり武功一等ともなれば当然多くの敵を倒してその返り血を浴びており、槍も朱色に染まってしまうのかも知れません。
そんな信政が生涯で上げた首級は93とも言われ、その武功を伝えるため正月には93個の鏡餅を「首餅」として祝い、その子孫も代々「血鑓九郎」の二つ名と朱槍を受け継ぎました。
血鑓九郎と似た音の「茶利(ちゃり)九郎」とも呼ばれた(書かれた)そうですが、何だかチャリ(自転車、小銭)みたいでちょっと軽い響きになりますね。茶の湯にも嗜みがあったのでしょうか。
■終わりに
以上、朱槍で有名な2人の戦国武将を紹介しましたが、更に調べればまだ他にもいるかも知れません。
(あるいは、武功一等の者に朱槍を許す制度があまり普及していなかった可能性もあります)

「俺だって、いつかは皆朱の槍を……」奉公に励む足軽(イメージ)
武士であれば誰もが憧れたであろう武功一等の証ですが、いざ許されて持ってみると、当家第一の槍に恥じぬ働きを求められ、また戦さ場では功名を狙う敵の標的ともなったことから、そのプレッシャーはより重く感じられたことでしょう。
※参考文献:
黒川眞道 編『越後史集 天 国史研究會蔵版』国史研究會、1916年5月
橋本玉蘭斎『徳川東国武勇伝』平凡社、2006年6月
一個人編集部『戦国武将の知略と生き様』KKベストセラーズ、2014年4月
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