この時代の女性天皇は、“中継ぎ”という意味が大きかったのですが、先代の桃園天皇が若くして崩御し、後継者とされた英仁親王が5歳だったので、即位することになりました。
当時、明正天皇以来、実に119年ぶりの女帝でした。在位期間は8年という短かさでしたが、その間、慈悲深い人格者として知られ、英仁親王の教育にも積極的に取り組んだといわれています。
そんな後桜町天皇にまつわるエピソードをいくつか見ていきましょう!
■早くして息子・後桃園天皇を失うも、光格天皇の教育に当たる
後桜町天皇は8年間の治世の後、皇位を13歳の英仁親王に譲り、上皇となって補佐することになりました。英仁親王は、後桃園天皇として即位しますが、元来病弱だったため、22歳で崩御。
後桃園天皇(ごももぞのてんのう)
まだ9歳のことです。後桃園上皇が光格天皇の後見をすることになりました。当時40歳。まるで本当の親子のような関係だったことでしょう。
このとき、上皇は仙洞御所(現在の京都御所西)に移っていたのですが、光格天皇への教育を行うために、内裏のほうにもよく向かっていたそうです。
後桜町上皇の光格天皇への影響力が最もうかがえるエピソードが、「尊号一件」という事件。光格天皇の実父は、閑院宮典仁親王でしたが、このころの「親王」は「禁中並武家諸法度」によって摂関家よりも序列が下にありました。
つまり、制度上、天皇の実父が、天皇や摂関家より、身分としては下の立場にいることになってしまいます。そこで、光格天皇は実父・閑院宮典仁親王に「太上天皇(上皇)」の尊号を宣下したいと幕府に伝えたのです。
ただ、「太上天皇」とは天皇が譲位した後の称号のなので、基本的にこの尊号は天皇の位についた元天皇のみに贈られるものでした。
朝廷から報告を受けた当時の江戸幕府の老中・松平定信は、当然のごとく大反対。
その結果、若くて血気盛んだった光格天皇も主張を収め、幕府との関係もこれ以上こじれることがありませんでした。
■天明の飢饉のときにりんごを配る
1782年頃から発生した飢饉は、東北地方を中心に多くの被害がもたらされました。のちの世にいう「天明の飢饉」です。
画像 天明飢饉之図(出典元 福島県教育委員会)
江戸時代、餓死者放置は当たり前!?人肉をも食べた恐ろしい飢饉の真実【その1】
米価の高騰による生活苦からの救済と、五穀豊作を祈願求めた一部の人々が、京都の御所の築地塀の周りを廻るようになりました。
まるで、神社にお参りでもするかのような雰囲気ですが、これを「御所御千度参り」といいます。この「御所御千度参り」は一種のブームになり、御所沿道では参拝者が溢れて、あちこちで茶や酒、食事が振る舞われるようになったそうです。
そのような暑さの厳しい頃、後桜町上皇は、参拝者に対して3万個のりんごを配らせたのですが、朝のうちに全てなくなってしまったそうです。
■歌道の名人としても名を遺し、文筆にも優れていた
後桜町天皇は、和歌にも優れ、数々の御製歌を残していることでも知られています。和歌の他にも漢学を好み、譲位後も『孟子』『貞観政要』『白氏文集』等の講義を受けるなど、とにかく学びを大切にしていたようです。
また、文筆にもすぐれ、宸記・宸翰・和歌御詠草など美麗な遺墨が残されているほか、『禁中年中の事』という著作も残しています。
以上、後桜町天皇の有名なエピソードを3つ紹介しました。残念ながら中学校や高校学校の歴史の教科書には詳しく触れられていない天皇でしたが、とても聡明で慈悲深い女帝だったと考えらえます。
参考:宮内省図書寮 編『後桜町天皇実録』1~4巻(2006 ゆまに書房)
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