それは、大隈が52歳のときのこと。
1889年、その日はいつものように大隈の乗った馬車が、外務省庁の門前にさしかかったときのこと、突然フロックコートに身をつつんだ男が、馬車に向かって爆弾を投げつけました。男の名前は来島恒喜(くるしまつねき)、「玄洋社」という政治団体の元メンバーでした。
来島の投げた爆弾は、大きな爆音とともに、馬車の一部を破壊。大隈は一命こそとりとめたものの、右足の骨が砕けるという大怪我を負いました。
かけつけた側近に大隈は、「ほかの人はよろしいかね。わが輩の足はだめだ、他は大丈夫だ」と、自分のことよりも部下の安全を気にかけていたようです。実行犯の来島は、犯行後に、自ら命を絶ちました。
事故の結果、大隈は右足切断の手術を受けることになるのですが、片足を失うことになっても、犯人を恨むことはなかったと伝えられています。
それどころか、大隅は側近に香典を持たせて来島の葬儀に参列させたうえ、後には追悼演説すら行ったのだとか。自分の命を奪おうとした相手に対して驚くほど寛容な態度を示しています。
手術後、大隅はアメリカ製の義足を購入し、リハビリに努めました。リハビリの最中に義足に様々な問題点が浮上するようになり、結果的にさまざまな改良が加えられるようになりました。その結果は後の義足の開発に役立てられています。

大隈が使用した義足(Wikipediaより)
このような、暗殺者にも寛容な措置をとった大隅が多くの人の指示を得たのも頷けます。
参考
- 木村時夫『知られざる大隈重信』(2000 集英社新書)
- エピソード大隈重信編集委員会『エピソード大隈重信125話』(1989 早稲田大学出版部)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan