戦国時代、天下統一をした豊臣秀吉。彼の生涯や行った政策などはあまりにも有名だと思いますが、そんな彼を支えた弟の存在を知っていますか?

彼の名は「豊臣秀長(とよとみひでなが)」。
あまり知られていない存在かもしれませんが、実は偉大な人物なんです。そこで今回の記事では、そんな豊臣秀長についてご紹介します!

■豊臣秀長とは?

人望の厚さはピカイチ!素晴らしき補佐役、豊臣秀吉の弟・豊臣秀...の画像はこちら >>


豊臣秀長像

豊臣秀長(とよとみひでなが:もしくは羽柴 秀長(はしば ひでなが))は、戦国時代から安土桃山時代に生きた武将です。天文9年(1540年)に尾張国愛知郡中村(現名古屋市中村区)に生まれ、天正19年(1591年)にこの世を去りました。

彼は豊臣秀吉の3歳年下の異父弟(同じ父親という説もあります)として、兄・豊臣秀吉の天下統一に大きく貢献しました。特に、秀吉が総司令官を務めた中国征伐において頭角を現し、秀吉の右腕としてその後も山崎の戦いや長久手の戦いに参加します。

大和郡山を居城とし、1587年には従二位権大納言となり、大和大納言と言われるようになりました。最期は病にたおれました。

■豊臣秀長の人物像

豊臣秀長は、とにかくその人望の厚さが有名。彼は若いころから穏やかな性格をしていたそうで、大所帯となった秀吉の家臣たちとも打ち解け、彼らから信頼されていました。

その温厚な性格で兄・秀吉をあらゆる面から細かくサポートし、秀吉の欠点を補いました。

人望の厚さはピカイチ!素晴らしき補佐役、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長についてご紹介


豊臣秀吉肖像

竹中半兵衛、黒田官兵衛、千利休らともうまく連携しました。また、彼がおさめた大和は寺社も多くありましたが、大きなもめごとは起こらなかったといいます。
彼自身が天下を取る、ということはありませんでしたが、人望だけ見れば兄・秀吉以上だといわれることもあります。

ちなみに、九州の大名であった大友宗麟が秀吉に助けを求めて京都へ来た際、秀吉は手厚くもてなし、そこで「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたそうです(『大友家文書録』による)。

当時すでに豊臣政権の大名統制の役割を、秀長が担っていたことがわかります。

いかがでしたか?今回は、豊臣秀吉の弟である、豊臣秀長についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも戦国時代や日本の歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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