一般市民は錦絵を見て、横浜の発展や鉄道の開通といった近代化の様子を知ることができました。
明治時代の錦絵を通して、文明開化の気分を味わってみませんか?
■錦絵って何? 江戸時代の浮世絵との違いは?
錦絵とは、多色摺りの浮世絵のことを言います。
参考:
浮世絵とは?錦絵との違いや版画ではない肉筆浮世絵など作品と共に紹介します
浮世絵は、元々は墨一色のモノクロでしたが、時代とともに版画技術の向上によって使える色の数が増えていきます。
カラフルな錦絵が最初に登場したのは江戸時代中期頃で、機会印刷に取って変わられる明治末期頃まで摺られていました。
明治時代になると、海外から輸入した安価で発色の良い染料が使えるようになり、錦絵は一層鮮やかなものになりました。
また、江戸時代の錦絵が娯楽品だったのに対し、明治の錦絵はジャーナリズムの役割を持っていました。
江戸時代の浮世絵には幕府による規制があり、幕府を批判する内容、風紀を乱すもの、色数や技巧の面で贅沢すぎるものを作った場合は処罰の対象となりました。
しかし、時代は変わり、明治政府の新出版法令により江戸時代の規制は廃止されます。
ここから、明治の錦絵は文明開花の様子を伝えたり、世間のスキャンダルを取り扱う、ジャーナリズムの要素を持つようになりました。
■横浜開港と港町としての発展
1859年、横浜を拠点とし、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダとの貿易が始まります。
煉瓦造りの領事館や外国人居留地ができていき、異国情緒漂う港町に発展していく横浜は、文明開花の象徴でした。
歌川貞秀「神名川横浜新開港図」です。港ができたことにより、横浜は活気のある街となりました。
■日本初の鉄道
明治5(1872)年、イギリスの協力を得て、横浜~新橋間で日本初の鉄道が開通しました。
当時、蒸気機関車は「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれ、沿線は列車を見にきた人々で溢れかえったと言います。
新橋~横浜間を50分で走破!明治維新後に誕生した日本最初の鉄道。その名も「陸蒸気」【その1】

こちらは汐留駅で蒸気機関車を待つ人々の様子です。
文明開花の時代らしく、着ているものも和服、洋服、髪型もザンギリ頭にちょんまげ頭とさまざまです。
西洋上げ巻、ザンギリ頭…文明開化の明治時代、男女の髪型はどのように変化したのか

■内国勧業博覧会
明治10年(1877)、日本初の内国勧業博覧会が開かれます。
殖産興業推進政策と深く結びつき、国内の産業発展や魅力ある輸出品目育成を目的に盛大に開催されました。
展示品は鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6つに分類され、全国から14,000点以上が出品されました。


■鹿鳴館
明治16年(1883)、鹿鳴館で初の舞踏会が開催されました。
明治政府は欧米諸国との間の不平等条約を改正するため、日本が文明国であることをと見せようと豪華絢爛な洋館「鹿鳴館」を建設しました。
もとは迎賓館としての使用や、外国との社交場のために作られましたが、舞踏会や明治天皇の誕生日を祝う天長節をはじめとした国内行事、皇族や上流夫人の慈善バザーなども開かれました。
鹿鳴館を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半は「鹿鳴館時代」と呼ばれます。

■錦絵新聞
錦絵新聞とは「東京日日新聞」という新聞記事の一部を錦絵にしたもので、ほとんどが明治7年(1874年)~明治14年(1881年)のごく短い期間に発行されていました。
取り上げる題材は主にスキャンダルや珍しい出来事などで、今の新聞で言う3面記事、社会面が主でした。
例えばこちらは、力士が火消しをしているところです。
火消しは本来、力士の仕事ではありませんが、電柱に引火しそうになっため、力士たちが水を運んだり建物を壊して火の手を止め、電柱を守った時のことが描かれています。
当時、電柱は最先端の技術でとても貴重だったため、力士たちも必死で守ったのだと思われます。

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