そこで、今回の記事では、そんな本多忠勝について、彼の人生や人柄などについて詳しくご紹介したいと思います。
■本多忠勝の人生は?
本多忠勝は、天文17年(1548年)に、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前)に生まれました。本多家は、徳川本家の最古参の家柄で、彼の父は本多忠高です。
父は忠勝が幼いころに戦死してしまったため、叔父の本多忠真(ほんだ ただざね)のもとで育てられます。初陣は永禄3年(1560年)、彼が13歳のときに参加した「桶狭間の戦い」でした。
桶狭間合戦 (歌川豊宣 画)
その後、生涯にわたり全57の戦に参加。三河一向一揆、姉川の戦い、三方ケ原の戦いなど、家康の人生においても重要な合戦で活躍し、大きな功績をあげました。多くの合戦に参加した本多忠勝ですが、なんと傷ひとつ負わなかったと伝えられています。
そんな彼は、「死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば」という句を残して、63歳でこの世を去りました。
■本多忠勝はどんな人物だった?
「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」の一人として、徳川家において最強の武将だったと評されているのが本多忠勝です。

本多忠勝像
勇猛果敢な人物として知られていますが、それは若いころからも現れており、15歳のときに参加した戦いで、叔父に自分の倒した敵の首を取るように言われたときも、忠勝は「人の力を借りた功などいらぬ」と断ったそうです。
また、長篠の戦いのあと、織田信長は、本多忠勝を「花も実も兼ね備えた武将である」としてほめたたえました。
また、豊臣秀吉からは、「日本第一、古今独歩の勇士」として評されました。
いかがでしたか?今回は、徳川家康の右腕として活躍し、徳川家最強の武将とも名高い、本多忠勝についてご紹介しました。
この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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