しかしよく見ると悲しいのは被害者ばかりでなく、加害者もまた悲しい過去を持っていることが少なくありません。
もちろん被害者らにしてみれば「だからどうした。それで犯行が正当化される訳でもあるまい」ともっともな一言。
それでもやはり第三者としては、自業自得とは言うものの、犯した罪ゆえにたどる末路の哀れさに、一抹の同情を禁じ得ないことが間々あります。
花井お梅。Wikipediaより
今回は明治時代の芸妓・花井お梅(はない おうめ)の生涯をたどってみましょう。
■花柳界の風雲児に、あたいはなる!
花井お梅は江戸幕末の元治元年(1863年)、下総国佐倉藩(現:千葉県佐倉市)の藩士・専之助(せんのすけ)の娘として生まれました。
武士なら苗字を名乗っていたはずですが、後に語られる事情により、家名を汚さぬよう伏せられたのかも知れません。
本名はムメ(読みは「うめ」)、家庭は貧しかったようで明治3年(1871年)、9歳で花井家へ養女に売られます。
「ムメや、達者でな……」
「父上……」
(もちろん人身売買は憚られますから、謝礼などの形で支払われたのでしょう)
「さぁ、ムメちゃん。行こうか……」
しかし花井家の方でもムメを末永く大切に育てる気などなかったようで、
「これは磨けば光る玉の子じゃから、投資もしっかり回収できるじゃろう」
とか何とか明治10年(1877年)、15歳になったムメは東京柳橋(現:東京都台東区)の花街へ芸妓に出されました。
「さぁ、今まで育ててやった恩返しに、たっぷり稼ぐんだぞ!」
「……はい」

美貌の芸妓として人気を集めたムメ(イメージ)
小秀(こひで)の名前でお座敷に上がったムメは、持ち前の美貌と世渡り上手で評判となり、18歳となった明治13年(1880年)、新橋の妓楼に移って秀吉(ひでよし)と改名します。
「もうあたいは一人前だから小の字は要らない。
気風のよい姐御肌で人望を集めたムメですが、いかんせん酒癖が悪くてキレやすく、ヒステリックな性格で敬遠されたようです。
近づきたくはないけれど、逆らうと怖いから離れもしない……そんな取り巻きたちに囲まれながら、ムメは花柳界の風雲児たるべく名を馳せたのでした。
■歌舞伎役者の源之助にフラれ……
さて、新橋花街にその人ありと知られ、憎まれっ子世に憚るを地で行ったようなムメでしたが、そんな彼女も恋をすることがあったようです。
そのお相手は歌舞伎役者の四代目 澤村源之助(さわむら げんのすけ)。ムメは第百三十三国立銀行(現:滋賀銀行)のとある頭取に囲われながら、貢がれたカネをせっせと源之助に貢ぎました。

四代目澤村源之助。Wikipediaより
しかし源之助にその気はなかったようで、
「これから芸道に邁進したいから、あなたと一緒になるつもりはない」
とまでは言ったかどうだか、交際を断られてしまいます。それで大人しく引き下がるようなムメではなく、さんざんモメた挙句に源之助の付き人である八杉峰三郎(やすぎ みねさぶろう。峯三郎、峯吉とも)までクビ(※)にされる大騒ぎに。
(※)峰三郎はムメに誑し込まれて源之助との仲立ちを買って出るなどしたのかも知れません。
「姐さん、あっしはこれからどうすれば……」
「心配要らないよ。あたいが雇ってあげるからね」
峰三郎はムメの箱屋(はこや。
そんなムメが25歳となった明治20年(1887年)、パトロンの頭取が出資して日本橋浜町(現:東京都中央区)で待合茶屋「酔月楼(すいげつろう。水月とも)」を開業。

晴れて酔月楼の女将となったムメ。『花井於梅 酔月奇聞』
「ねぇ、パパぁ。あたい浜町にお店開きたぁい……♪」
「あぁ。いいともいいとも……おカネならパパが出してあげようじゃないか……」
とか何とか、現代でもどこかにありそうなノリで待合の主人に収まったムメですが、25歳ともなれば中年増(ちゅうどしま)と呼ばれ、花柳界の最前線はそろそろ若い娘たちに譲ってもいい頃合いでした。
(……まぁ、それは良かったけれど……)
ムメには新たな悩みの種が出来ていました。店を持って以来、何かと旦那ヅラをするようになってきた峰三郎の存在です。
【下編に続く】
※参考文献:
朝倉喬司『毒婦伝 高橋お伝、花井お梅、阿部定』中央公論新社、2013年12月
紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』東京堂出版、1993年5月
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