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もうカタギに戻れない…殺人を犯した明治時代の美人芸妓・花井お梅の末路【上編】
時は明治初期、貧乏侍の娘・ムメ(花井お梅)は幼くして養女に売られ、15歳で芸妓デビュー、小秀(こひで)と名乗ります。
後に18歳で「花柳界で成り上がってやる!」という心意気を宣言するべく秀吉(ひでよし)と改名。
花井お梅。Wikipediaより
持ち前の美貌と姐御肌でガンガン売り出しますが、酒癖の悪さとヒステリックな性格で周囲から敬遠されてしまいます。
そんな彼女が恋したのは歌舞伎役者の四代目 澤村源之助(さわむら げんのすけ)。パパ活(※)で荒稼ぎしたおカネをこれでもかと貢いだものの、あっさりフラれてしまいました。
(※)第百三十三国立銀行(現地:滋賀銀行)のとある頭取に囲われていたそうです。
少しでも当てつけになればと源之助の付き人だった八杉峰三郎(やすぎ みねさぶろう)を下男に雇ったものの、源之助は見向きもしません。
「チッ、当てが外れたね……!」
ともあれ25歳になった明治20年(1887年)5月、日本橋浜町(現:東京都中央区)に待合茶屋「酔月楼(すいげつろう。水月とも)」を開店(※これもパパ活の成果)。
「よく頑張ったなお梅。これでお前も独り立ちだ!」
そうなると鬱陶しいのが、雇われているだけのくせに、隣で旦那ヅラをしている峰三郎の存在でした……。
■峰三郎を刺殺、騒ぎ立てるマスコミ
「あぁ……やっちまった……」

峰三郎を殺害。やまと新聞社「近世人物誌 花井お梅」
明治20年(1887)6月9日、ムメは峰三郎を刺し殺してしまいました(厳密には、逃亡後に出血多量で死亡)。
その動機は史料によって様々であり、いつも?の口喧嘩がエスカレートした結果とか、好きでもない峰三郎のストーカー行為が鬱陶しかったとか、峰三郎に店を乗っ取られそうになったなど諸説あります。
「美しすぎる芸妓、恋人を刺殺!」「権利争いか、痴情のもつれか」……などなど。
美人芸妓の殺人事件とあってマスコミは喜んで飛びつき、あることないこと書き立てられた挙句、ムメは「毒婦」の濡れ衣を着せられてしまいますが、当のムメは計画的犯行どころか動転して歩けず、父親に介助されながら自首するほどでした。

裁判所へ引き立てられるムメ(水月のお粂)。豊原国周「月梅薫朧夜 重罪裁判所前の場」
裁判の結果、無期徒刑(無期懲役)の判決が下され、服役中もマスコミによってその動静が騒ぎ立てられ、けっきょく明治36年(1903年)4月に釈放。ムメは41歳になっていました。
事件から十数年が経ってもまだ野次馬が群がってくるのを避けるため、定刻より早めに刑務所の裏口から出て行ったそうです。
■カタギに戻れず、自分の殺人経験を切り売りした晩年
出所後はカタギになろうと汁粉屋や洋食屋、小間物(こまもの)屋などを開きますが、店に来るのは「美人芸妓の成れの果て」を見に来る野次馬ばかりで、どの商売も長続きしません。
「何だい、人が反省して真面目に生きようとしているのに、どいつもこいつも……!」
いよいよ食うに困ったムメは、思い切って自分の殺人経験を題材に脚本を書き、明治38年(1905年)から芝居の旅回りを始めます。
「あぁ……やっちまった……」

トラウマを何度も何度も上演したムメの胸中は……(イメージ)
何せ殺人を犯した当事者の経験ですから生々しいことこの上なく、芝居興行はゴシップ趣味を満たしたいお客で大盛況。十年以上も各地で好評を博しました。
(いくら食うためとは言え、自分のトラウマであったろう殺人経験を自分で上演する心理状態は、決して尋常ではなかったはずです)
しかし40歳を過ぎて旅から旅の暮らしはこたえたようで、54歳となった大正5年(1916年)、古巣の新橋へ戻って芸妓に拾ってもらいますが、その年の暮れに肺炎で亡くなります。
最後の源氏名は秀之助(ひでのすけ)、かつて惚れ込んだ源之助への未練が込められているのでしょうか。
※参考文献:
朝倉喬司『毒婦伝 高橋お伝、花井お梅、阿部定』中央公論新社、2013年12月
紀田順一郎『幕末明治風俗逸話事典』東京堂出版、1993年5月
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