戦国時代に生きた武将で、中国地方の三大謀将(その他は尼子経久・毛利元就)の一人に数えられたり、松永久秀や斎藤道三らとともに日本三大梟雄(きょうゆう:残忍で勇猛な人物)と言われたりしている彼ですが、今回は、そんな宇喜多 直家の人生や人物像を詳しくご紹介します。
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身内殺しの策略家。
■宇喜多直家(うきた なおいえ)の生涯
宇喜多直家は、宇喜多興家の子どもとして、享禄2年(1529年)に生まれました。祖父の宇喜多能家(うきたよしいえ)は播磨の浦上氏の家臣として優れた人物でしたが、天文3年(1534年)に、同じく浦上氏の家臣であった島村盛実に城を襲われ、自害します。
その後、直家は、父興家とともに備後鞆・備前福岡・同笠加などを転々とする日々を送ります。また、父も自害してしまい、その後は幼いながら牛飼いのようなことをしていたといわれています。
このような幼少期の大変な経験が、直家の人格形成にあったとも言われています。成人した直家は、浦上宗景の家臣となります。しかし、お家安泰まではほど遠く、そこで彼が用いた手段が、謀殺。舅の中山信正を斬殺したり、娘婿の浦上宗辰や後藤勝基、姉婿の谷川久隆なども殺害したりしました。
後に、織田家につき、息子の宇喜多秀家を羽柴秀吉に託して天正9年(1581年)に亡くなりました。
■宇喜多直家の人物像は?
宇喜多直家は、暗殺を繰り返したことから、悪人と言われることが多いです。弟の宇喜多忠家(ただいえ)からも「兄は腹黒く、何をたくらんでいるかわからない」と言われるほど。

宇喜多忠家
しかし、暗殺をさせた古参の家臣たちを使い捨てにすることもなく厚遇したり、また人々が飢えているようであれば自身も食を断ったりするなど、人々を思う気持ちもあったことがわかります。
一方、殺害するターゲットが男色家の場合は、容姿端麗な小姓を刺客として送り込むなど、あらゆる手練手管も持っていました。
いかがでしたか?
今回は、「悪人」と称されることの多い、宇喜多直家についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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