キヨッソーネは当時の大蔵卿・大隈重信(おおくま しげのぶ)に招かれて明治8年(1875年)に来日。
西郷隆盛とキヨッソーネ。顔も知らないのに、どうやって肖像画を描き上げた?
紙幣や肖像画など、数々の作品を手がけたキヨッソーネですが、西郷の肖像画を描くに当たって本人に会ったことがなければ、写真を見たこともなかったと言います。
顔を知らない相手の肖像画を、キヨッソーネはどのように描き上げたのでしょうか。
■西郷従道+大山巌÷2=西郷隆盛?
「会ったこともない人物の肖像を、噂だけで描き上げろと言われても……」
明治維新の元勲として称揚するのが目的だから、カッコよく描けばいいのは解ります。しかし、元の顔が分からないことには、デタラメに描く訳にもいかず、手も足も出ません。
「ならば、妙案があります」
悩んでいたキヨッソーネに提案したのは、西郷の朋輩であった大蔵省の紙幣頭・得能良介(とくのう りょうすけ)。

西郷従道と大山巌。足して2で割れば西郷どんに?
「西郷どんの顔は、目元が弟の西郷従道(じゅうどう)に、口元は……そうさな、大山巌(おおやま いわお)さんがよく似ているから、足して2で割ったように描けばよかろう(大意)」
へぇ、なるほどね……とまぁそんな具合に描き上げた肖像画が現代に伝わったのですが、それを元にして制作された上野恩賜公園(東京都台東区)の西郷隆盛像は、西郷をよく知る者からは「西郷どんの魅力を表現し切れていない」など、やや不評だったようです。
「顔つきはよく出来ているが、今一つ彼の人間的魅力を引き出し切れていない」
「何とも言えない愛嬌と、情愛に流されてしまう弱さを併せ持った唇の表現が惜しい」
「少し太りすぎじゃなかろうか」
……などなど(いずれも大意)。

高村光雲の代表作の一つとなった西郷隆盛像。今度行く機会があったら、唇をじっくり観察してみたい。
銅像制作を手がけた彫刻家の高村光雲(たかむら こううん)たちにしてみれば、本人に会ったこともない者が描いた肖像画を元に、大人の諸事情を盛り込んで作ったものを完璧に似せろという方が無理難題というもの。
それでも縁者らをして「顔つきはよく出来ている」などと言わせているのですから、高村光雲の手腕はもちろん、キヨッソーネの大きな功績と言えるでしょう。
■キヨッソーネが描いた「お札の顔」たち
キヨッソーネは西郷隆盛の他にも、紙幣のために顔を知らない人物の肖像画を手がけています。
例えば神功皇后(じんぐうこうごう)や武内宿禰(たけうちの すくね)、藤原鎌足(ふじわらの かまたり)に和気清麻呂(わけの きよまろ)と言った古代の偉人たちは、写真はもちろん肖像画も想像でしかない(少なくとも裏づけに乏しい)ため、それぞれモデルを決めて描いたそうです。
【キヨッソーネが手がけた紙幣の顔】
- 神功皇后(1円、5円、10円紙幣)……印刷部の女性職員
- 武内宿祢(1円、5円、200円紙幣)……印刷部長の佐田清次(さた せいじ)
- 藤原鎌足(20円、100円、200円紙幣)……松方正義(まつかた まさよし。当時大蔵官僚)
- 和気清麻呂(10円紙幣)……木戸孝允(きど たかよし。維新の元勲)

武内宿祢と神功皇后の紙幣(一部)
(※いや、きっと彼女こそ神功皇后のイメージに相応しい顔立ちだったのでしょう。きっとそうです)
でも、違う名前であっても、自分の顔が紙幣のモデルになっているなんて、さぞや鼻高々だったのか、それとも同僚女性から妬みの的にされたのか、想像が尽きませんね。
もしもこれらの紙幣を見る機会があったら、彼らに思いを馳せてみるのも楽しいでしょう。
■終わりに
少し話がそれましたが、キヨッソーネは明治31年(1898年)に東京麹町の自宅で亡くなり、今は港区の青山霊園に眠っています。
♪薩摩西郷さんは 世界の偉人
お国の為なら オハラー 死ぬると言うた……♪
※民謡「鹿児島おはら節」より

渋沢栄一の新紙幣。Wikipediaより(画像:財務省)
これまで「ヒゲがない(≒偽造しやすい)」事から紙幣の顔に選ばれなかった渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が、造幣技術の向上によって新紙幣の顔になるということで、これは西郷どんにもお札の顔になるチャンス?が巡って来るかも知れませんね。
※こちらもどうぞ
そんな理由で?日本実業界の父・渋沢栄一が今まで紙幣の顔に選ばれなかったのは、アレがなかったから
※参考文献:
石原幸一郎『日本紙幣収集事典』原点社、2005年5月
印刷局朝陽会ら編『お雇い外国人 キヨッソーネ研究』中央公論美術出版、1999年6月
樺山愛輔『伝記叢書44 父、樺山資紀 伝記・樺山資紀』大空社、1988年6月
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