みなさんは、戦国時代の武将「加藤清正(かとうきよまさ)」についてどれくらいご存じですか?名前だけは聞いたことがある、有名な武将ということは知っているけれど詳しくは知らない、など様々だと思います。

そこで今回の記事では、そんな加藤清正について、彼の生涯や人物像についてご紹介したいと思います!

■加藤清正の生涯は?

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加藤清正 肖像画

加藤清正は、永禄5年(1562年)に尾張国に加藤清忠の子どもとして生まれました。


清正が3歳のときに父が亡くなったため、母は彼を妙延寺に通わせ、勉学を習わせました。そして、母と豊臣秀吉の母が親戚関係にあったことから、清正は10歳で秀吉の小姓として使えることに。

戦国時代の義理堅い名将!今も”せいしょこさん”として親しまれる武将・加藤清正の人生と人柄


賤ヶ嶽大合戦の図

天正11年(1583年)に起きた「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、清正は柴田側に突撃し、勝利に導きました。また、その後も小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定などに参加しています。

天草の乱や朝鮮出兵などを経て、豊臣家への忠義を強めていきます。その後、豊臣秀頼と徳川家康の二条城での会見を取り持つなどします。その後京都から肥後へ帰る途中病気になり、そのまま亡くなりました。

■加藤清正はどんな人物だった?

幼少期から身体が大きく武芸にも優れていたという清正は、秀吉をはじめ周囲の人から可愛がられていたといいます。

幼少期に負けた方が勝った方の家臣になるという約束をして争い、森本一久と飯田直景は清正の家臣になっています。ちなみに、この二人は加藤家三傑と呼ばれるようにもなります。

また、熊本にある日蓮宗本妙寺と加藤神社は、今でも「清正公(せいしょこ)さん」を信仰する人々が通うといいます。

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本妙寺

加藤清正は領内の治水事業にも積極的に取り組み、その土木技術力の高さから、今でも使われている遺構も多くあると言われています。
さらに工事現場には工事が無事に終わるようにと、祠(ほこら)に清正公が祀られているそうです。

いかがでしたか?今回は、加藤清正についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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