「今こそ、源氏を再興すべし!」
源氏の嫡流(自称)を再興すべく、旗揚げした頼朝公。
当時、各地に散らばっていた頼朝公の弟たちもこれに呼応、こと異母弟の源範頼(のりより)や源義経(よしつね)らの活躍(そして悲劇)は有名ですね。
一方、頼朝公の弟として決起したものの、その志を遂げることなく討たれてしまった者もいました。今回はそんな一人、源希義(みなもとの まれよし)のエピソードを紹介したいと思います。
■遠く土佐国へ流されて……
源希義は仁平2年(1152年)、源義朝(よしとも)の五男として誕生しました。母親は頼朝公と同じ由良御前(ゆらごぜん。熱田神宮宮司の娘)です。
平治元年(1160年)に勃発した平治の乱に敗れた父や長兄・源義平(よしひら)たちが処刑・暗殺されると、当時9歳だった希義は土佐国介良(けら。現:高知県高知市)へ流罪とされました。

父・源義朝の最期。月岡芳年「大日本名将鑑 左馬頭義朝」
兄・頼朝公(当時14歳)はご存じ伊豆国蛭島(現:静岡県伊豆の国市)へ流されましたが、同じ母親の血肉を分けた兄弟同士、これが最期の別れとなってしまいます。
「兄上……っ!」
元服してからは「土佐冠者(とさのかじゃ。冠者は成人男子の意)」「介良冠者」などと呼ばれながら、現地で歳月を送りました。
この期間については頼朝公と同じく伝承の域を出ませんが、土豪の夜須七郎行宗(やす しちろうゆきむね)から支援を受けながら、琳猷上人(りんゆうしょうにん)を師として父の菩提を弔う日々を送っていたそうです。
■魂となって兄と再会?
そして20年の歳月を経て、ついに頼朝公挙兵の報せを受けた希義は、兄に呼応するべく決起を図ります。

「いざ鎌倉殿の下へ!」平家討伐に勇み立つ希義(イメージ)
しかしこれには平家方が先手を打っており、蓮池家綱(はすいけ いえつな)と平田俊遠(ひらた としとお)らが兵を率いて希義らを急襲、あっけなく討ち取ってしまいました。
(※)別の説では熊野水軍などと連携して独自の勢力を築いており、寿永元年(1182年)ごろまで抵抗を続けたとも言います。
「おのれ……今はこれまで!」
命からがら海上へと逃れた行宗は追手を振り切り、鎌倉入りした頼朝公に合流。後に捲土重来を果たすのですが、それは少し先の話し。
一方、年越山(現:高知県南国市)で討ち取られてしまった希義の遺体は平家に逆らった者の見せしめとして打ち捨てられていましたが、これを憐れんだ琳猷上人がねんごろに供養。
やがて文治元年(1185年)3月27日、上人は希義の遺髪を鎌倉へ持参。対面を果たした頼朝公は「亡き弟の魂と再会できたような思いである」と涙を流して感謝したそうです。
■エピローグ
その後、弟の仇である蓮池、大軍を派遣して平田ら一党を討ち滅ぼした頼朝公は介良荘に西養寺を建立、希義の菩提を弔いました(明治時代の廃仏毀釈運動により、現在は廃寺)。
また、平成7年(1995年)には西養寺と鎌倉にある頼朝公の墓で石と土を交換、兄弟の再会を果たす儀式が行われています。

頼朝公の墓。
頼朝公のお墓へお参りされたら、玉垣の右手にそのことを示す案内板と、その根元に土佐から運んできた石が積んでありますので、現世で果たせなかった頼朝公と希義の再会に思いを馳せてみるのも、実に味わい深いもの。
頼朝公と源平合戦時における絡みはないものの、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場して欲しいですね!
※参考文献:
- 『郷土歴史大事典 高知県の地名』平凡社、1983年1月
- 日下力ら校注『新日本古典文学大系 保元物語 平治物語 承久記』岩波書店、1992年7月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡1 頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
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