江戸時代の探検家として知られ、樺太(サハリン)が島であることを確かめ「間宮海峡」という名前を世界地図にとどめた間宮林蔵(まみやりんぞう)に関しては、いままで何者なのか、謎の部分が少なくありませんでした。
間宮は常陸国(現在の茨城県)の農民の子として生まれ、最初の蝦夷地(北海道)行きは雇人として随行しています。
現在、彼の実態は、幕府の隠密であったというのが定説になっています。その根拠となっている出来事の一つが、これまた歴史の教科書に出てくるシーボルト事件。この事件は、1828(文政11)年、ドイツ人医師シーボルトが外国への持ち出しが禁止されていた日本地図や葵の紋服などを持ち出し、翌年に国外追放になった事件です。
この事件が発覚したのは、当時林蔵が蝦夷地で採取した植物などの標本が欲しかったシーボルトが、林蔵に手紙を送り、それを受け取った林蔵が、外国人との私的な贈答は国禁に触れると判断、それをそのまま開封せずに奉行所に差し出してしまったことによります。
こうして当時江戸で天文学者をしていた高橋景保らがシーボルトにご禁制の品物を渡していたことが発覚したのです。このことからシーボルトは国外追放、景保などシーボルトに関係した日本人たちも厳罰に処されることになったのです。
探検を終えた林蔵は一躍、人気者となり武家・庶民を問わずに尊敬されるようになったのですが、この密告事件を契機に林蔵は世間から「卑劣な密告者」というレッテルをはられ、冷たい視線を浴びるようになってしまったのです。
この事件以降、林蔵は幕府の隠密へと転身。探検で培った知識と行動力で隠密としても活躍しました。
林蔵の隠密活動で明らかになっているのは、薩摩藩の密貿易探索と石見(島根県西部)浜田浜の密輸事件摘発です。61歳の頃薩摩から戻った林蔵は幕府から働きが認められ、二十俵の加増を受けました。
1844(弘化元)年2月26日、林蔵は江戸・深川の住まいで縁者に看取られながら70年の生涯を閉じました。
武士の身分は自分の代のみと考え、後継は置きませんでしたが、幕府は林蔵の生前の忠勤ぶりを高く評価し、ふさわしい人物を選任、跡取りとして間宮家を存続させたのでした。
シーボルト事件の後、後半生を隠密として過ごしたこともあり、同時代の伊能忠敬と比べると若干人気が低い間宮林蔵ですが、彼が偉大な探検家であることは間違いありません。
後に、樺太とアジア大陸の間の海峡が、シーボルトによって「間宮海峡」として世界に広がったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。
参考文献
間宮は常陸国(現在の茨城県)の農民の子として生まれ、最初の蝦夷地(北海道)行きは雇人として随行しています。
その後、伊能忠敬と巡り会って親交を深め、測量術をマスターして、それまで半島だったとされていた樺太を島であると確認した人物として歴史の教科書にも紹介されています。
現在、彼の実態は、幕府の隠密であったというのが定説になっています。その根拠となっている出来事の一つが、これまた歴史の教科書に出てくるシーボルト事件。この事件は、1828(文政11)年、ドイツ人医師シーボルトが外国への持ち出しが禁止されていた日本地図や葵の紋服などを持ち出し、翌年に国外追放になった事件です。
この事件が発覚したのは、当時林蔵が蝦夷地で採取した植物などの標本が欲しかったシーボルトが、林蔵に手紙を送り、それを受け取った林蔵が、外国人との私的な贈答は国禁に触れると判断、それをそのまま開封せずに奉行所に差し出してしまったことによります。
こうして当時江戸で天文学者をしていた高橋景保らがシーボルトにご禁制の品物を渡していたことが発覚したのです。このことからシーボルトは国外追放、景保などシーボルトに関係した日本人たちも厳罰に処されることになったのです。
探検を終えた林蔵は一躍、人気者となり武家・庶民を問わずに尊敬されるようになったのですが、この密告事件を契機に林蔵は世間から「卑劣な密告者」というレッテルをはられ、冷たい視線を浴びるようになってしまったのです。
この事件以降、林蔵は幕府の隠密へと転身。探検で培った知識と行動力で隠密としても活躍しました。
林蔵の隠密活動で明らかになっているのは、薩摩藩の密貿易探索と石見(島根県西部)浜田浜の密輸事件摘発です。61歳の頃薩摩から戻った林蔵は幕府から働きが認められ、二十俵の加増を受けました。
1844(弘化元)年2月26日、林蔵は江戸・深川の住まいで縁者に看取られながら70年の生涯を閉じました。
武士の身分は自分の代のみと考え、後継は置きませんでしたが、幕府は林蔵の生前の忠勤ぶりを高く評価し、ふさわしい人物を選任、跡取りとして間宮家を存続させたのでした。
シーボルト事件の後、後半生を隠密として過ごしたこともあり、同時代の伊能忠敬と比べると若干人気が低い間宮林蔵ですが、彼が偉大な探検家であることは間違いありません。
後に、樺太とアジア大陸の間の海峡が、シーボルトによって「間宮海峡」として世界に広がったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。
参考文献
- 赤羽 榮一『未踏世界の探検者 間宮林蔵』 (2018 清水書院)
- 小谷野敦『間宮林蔵〈隠密説〉の虚実』(1998 教育出版江戸東京ライブラリー)
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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