土方歳三(ひじかたとしぞう)は、一体箱館でどのような最期を遂げたのでしょうか?

大河ドラマでは触れられない、でも知りたい部分ってありますよね。

この記事を読めば、土方歳三が箱館でどのような立場にあったか、どのように戦って死んだかがわかります。


当該記事は、渋沢栄一らの証言や国立国会図書館のHPを参考に歴史ライターの著者が作成しました。

気になる部分だけ、短時間でわかりやすく読めるようになっています。

鬼の副長、箱館共和国の一員として五稜郭で戦う

明治元(1868)年10月、榎本武揚らは奥羽追討平潟口総督・四条隆謌に嘆願書を提出。旧幕府によって蝦夷地(現在の北海道)を開拓と、自らの救済を訴えました。

同月、蝦夷地の鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は箱館に向けて進撃。瞬く間に同地を手中に収めます。


新選組副長・土方歳三は、七百の旧幕府兵を指揮して松前城に進撃。わずか数時間で落城させました。

幕末以降は、新式銃が戦いの行方を決するようになっていました。

歳三は見事に新式銃の部隊を指揮し、戦いの勝利に貢献したのです。

誤解されがちですが、新選組は剣や槍だけの旧式部隊ではありません。

実際に早い時期から銃による武装を試みており、歳三などはいち早く洋装を取り入れていました。


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冬の五稜郭

陸軍奉行並・土方歳三

類稀なる歳三の用兵術と、戦いの経験は旧幕府でも随一だったようです。

同年12月、旧幕府軍は蝦夷地に箱館政権を樹立。榎本武揚が総裁にされると、土方歳三は陸軍奉行並・箱館市中取締と陸海軍裁判局頭取を兼任しました。

陸軍奉行は、かつて江戸幕府に存在した役職です。

かつては幕府内において、歩兵・騎兵・砲兵を率いる立場として置かれていました。

正規の陸軍奉行には、旧幕臣の大鳥圭介が就任しています。


大鳥は大坂の適塾で蘭学や西洋医学を学び、江戸の坪井塾で塾頭となったほどの学識派でした。

対して歳三は、大鳥とは経歴が違います。

江戸で天然理心流剣術を学び、京都に上って近藤勇らと新選組を結成、組織運営に非凡な才能を発揮していました。

池田屋事件では、尊王攘夷派による京都大火計画を阻止。明治維新を一年遅らせた、と言われるほどの大巧でした。

新選組は小部隊でしたが、最前線で治安維持活動に従事し、幾多の戦闘に参加しています。


いわば歳三は、実戦で培った経験を買われたと言ったところでしょうか。

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函館の風景

旧幕府陸軍の統率者

歳三自身は、鳥羽伏見の敗戦後から特に新式銃へ傾倒していきました。

用兵の才能や経験は勿論ですが、戦略眼は大いに買われています。

奥羽越列藩同盟の会議では、榎本武揚は歳三を全軍の総督に推薦。しかし歳三が「軍律に背けば、大藩の重役も斬る」と発言したことで話が流れています。

陸軍奉行並への就任は、いわば榎本の期待の大きさが実現したものでした。


翌明治2(1869)年正月には、歳三は更なる権限を与えられています。

組織編成により、歳三は大鳥圭介と共に箱館政府軍のレジマン(連隊)を束ねる立場に就任しました。

歳三の指揮下には、新選組だけでなく、フランス人司令官のカズヌーヴや、伊庭八郎も加えられたのです。

箱館政府軍の軍権の大部分は、歳三に預けられていました。

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箱館奉行所

新式銃の部隊の指揮官となって、二股口での戦いを勝利に導く

箱館を制圧したものの、歳三たちの前途には困難が待ち構えていました。

明治元(1868)年11月に主力軍艦・開陽丸が沈没。
翌明治2(1869)年3月には、宮古湾海戦で敗北するなど、戦況は劣勢に傾いていきました。

4月、薩長ら明治政府の軍が蝦夷地に上陸を開始。箱館を目指して進撃を開始するようになります。

歳三は、百三十人の兵を率いて二股口に布陣します。

対して明治新政府の兵は四百人。しかも装備する銃はで土方隊がエンフィールド銃で先込式、新政府側はより最新である元込式のスナイドル銃でした。

普通に戦えば、敏三の部隊は壊滅してしまいます。

そこで歳三は、事前に台場山に守備するための塹壕陣地を構築しました。

4月13日、新政府軍が街道沿いに姿を表します。歳三隊は塹壕から射撃を開始。新政府軍を退けています。

23日には新政府軍は八百まで兵を増派。しかし歳三らはあくまでも抵抗し続けました。陣地から十字砲火を浴びせ、斬り込みを敢行。遂には新政府軍を撤退に追い込むことに成功します。

程なくして、別地点の矢不来が陥落。背後を突かれる恐れが出たため、歳三隊は撤退する道を選びました。

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二股口の台場山から望んだ景色

箱館での最後の戦いと死因

やがて箱館共和国に運命の日が訪れます。

5月11日、新政府軍は箱館に総攻撃を開始。新政府軍の総兵力が一万近い大軍に対し、箱館軍は三千もいない小勢でした。

新政府軍は箱館山に奇襲攻撃を行い、箱館市街地を瞬く間に占領します。

このとき、孤立した弁天台場には、島田魁ら新選組の生き残りが立て篭っていました。

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弁天台場の俯瞰図

歳三は知らせを聞くや、弁天台場救出に出陣。配下の兵と共に一本木関門に到着します。

一本木関門は、箱館市街地と五稜郭の中間地点に位置していました。

歳三が到着したとき、一本木関門には箱館から敗走する味方が押し寄せて来ていたようです。

ちょうどそのとき、箱館軍の軍艦・蟠竜が新政府の朝陽丸を撃沈。歳三は「この機を逃すべきではない」と判断し、副官の大野右仲に声をかけます。

「速やかに兵を進めよ。我はこの柵にあって、退く者を斬る」

大野は敗走する味方を率いて前進。敗走する箱館軍は瞬く間に勢いを取り戻していきました。

しかし無情にも、その時は訪れてしまいます。

歳三は馬上で敵弾を腹部に受けて落馬。そのまま息を引き取ったと伝わります。

享年三十五。辞世は「鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすはかばねの上に照かと」と伝わります。

京都から始まり、六年にも渡って最前線で戦い続けてきた男の最期でした。

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箱館総攻撃の図

市村鉄之助が届けた歳三の写真(現在も歳三の子孫が運営する土方歳三資料館に刀と共に展示)

話は歳三の生前に戻ります。

土方歳三には、市村鉄之助という小姓(新選組隊士)がいました。

市村は明治2(1869)年の段階で十六歳、歳三からすれば子供でもおかしくない年頃です。

箱館軍と新政府軍の間で戦争が迫ったある日、歳三は自室に市村を呼びました。

土方は市村に命じます。

「私の生まれ故郷の日野に、遺品を持って行け」

箱館から逃げろ、と歳三は市村に言っていました。

京都時代には、新選組隊士の脱走を堅く禁じていた歳三です。

事態がそれほど切迫すると同時に、市村を死なせたくないという思いが見て取れます。

歳三の思いを感じた市村ですが、申し出に首を縦には振りません。

「私は討ち死にする覚悟はできております。その役目は誰か他の者に命じてください」

歳三は表情を怒らせ、手元に刀を引き寄せました。

「我が命が聞けないなら、今ここで討ち果たすぞ」

凄む歳三に対し、市村はやむなく頷きます。

すると歳三はニコッと笑いました。

「日野の佐藤家は、必ず面倒を見てくれる。気を付けて行けよ」

歳三は市村に、自らの写真と佐藤家への手紙、50両(約500万円)の金を渡しました。

市村が五稜郭の外に出た時のことです。

振り返ると、窓の向こうから自分を見ている人影があったと言います。

「土方隊長だったのだと思います」

市村はそう語り残していました。

やがて市村は武蔵国の日野に到着。佐藤家で歳三の訃報を聞き涙しました。

市村が届けた写真が、現存する土方歳三の写真です。

歳三の写真は、彼の愛刀・和泉守兼定と共に現在も土方歳三資料館(運営は土方歳三の子孫の方)に展示されています。

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日野の高幡不動

漫画『ゴールデンカムイ』は本当の話? 土方歳三の生存説は実際していた!? 遺体を埋葬した墓は現在も見つかっていない。

土方歳三は、明治2年5月11日に戦死したー

通説ではそのようにされています。しかし本当にそうなのでしょうか?

漫画『ゴールデンカムイ』では、土方歳三の生存説を採用して、実際に戦う姿が描かれています。

土方歳三は生きていたのでしょうか?

実際に歳三が戦死した時の話を見ていきましょう。

箱館戦争中、御庭番出身の小芝長之助が土方歳三の遺体を受け取りに言ったと言われます。実際に小芝は大正時代になって、日野にある歳三の生家を訪ねています。よほど印象的だったことでしょう。

だとすれば、小芝は歳三の遺体が埋葬された場所を知っているはずです。日野の歳三の生家にも伝えていておかしくありませんね。であれば、何故に歳三の墓の場所が公にされていないのか?

このとき、小芝は「五稜郭の中のどこかに埋めた」とだけ言い残したそうです。

詳細に伝えられないのは、実は生きていたからだとも勘繰りたくなりますね。

全ては憶測ですが、歳三が死んだという証拠もないのです。

つまり生きている可能性さえある、と言えます。

歳三の墓の場所については「(伊庭)八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らに在り」と史談会記録にあります。

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伊庭八郎(月岡芳年画)

伊庭八郎は旧幕臣の凄腕の剣客として知られています。

伊庭の埋葬地も五稜郭の中のどこかだと考えられますが、歳三と同様に判然としていません。

興味深いのは「ロシア亡命説」です。

歳三は戦死をせず、海を渡ってロシアへ逃げたという話。こちらにも確たる証拠はなく、憶測の域を出ていません。

源義経が海を渡ってチンギス・ハンになった、という伝説の類と何ら変わりないのが実情です。

歳三のそばにいた沢忠助は、歳三の死を証言しています。

落馬した、という話は敵味方にも伝わっているので、被弾した可能性は高いでしょう。しかし肝心の沢も動向が途切れており、さらなる研究が待たられるところです。

最後に言えるのは、生存説が出るのは人気者の証だということです。

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土方歳三最期の地碑

性格まで超イケメンだった!? 土方歳三の人柄とは? 同時代を生きた渋沢栄一らの証言から追う

土方歳三は、旧幕府の立場からしばらくは歴史上でも悪人として扱われてきました。

しかしその評価は正しくはありません。

むしろ歳三は、戦術や調整能力において、薩摩や長州の出身者よりも格段に能力を持っていました。

実際に伊豆の韮山代官・江川太郎左衛門(領地が歳三の故郷である多摩地域)は「豪邁不屈、胆気非常の男」と評しています。

江川は当時は随一の開明家で、反射炉の製造や農兵隊の編成にも関与した人物でした。

新選組は江川の農兵思想に近く、歳三は多分に影響を受けていました。

歳三が持つ、形にとらわれない柔軟な発想は、はやくから周囲に認められていたようです。

さらにもう一人の話を取り上げます。

明治の大実業家・渋沢栄一は、幕臣時代に歳三と関わりを持っています。

謀反人逮捕に対し、渋沢は新選組に協力を要請。このとき、一隊を率いて現れたのが副長である歳三でした。

このとき、渋沢は単身での逮捕を主張しています。

しかし新選組隊士が反発。歳三が渋沢の言い分を是として、受け入れるという出来事がありました。

渋沢は歳三を「土方歳三といふ人が事理の理解つた人であつた」と評価しています。

幕末から明治まで、渋沢は多くの人物と交流しています。

渋沢が高く評価した、平岡円四郎や井上馨などは、いずれも天下国家に影響を及ぼす人物たちでした。

歳三も渋沢の見識から見て、相当な人物と評価されていたようです。

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渋沢栄一

参考文献
    • 竹内収太 『箱館戦争』 五稜郭タワー 1983年
    • 「土方歳三」 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典 国立国会図書館HP
    • 「歳三の生家 土方歳三資料館」 土方歳三資料館HP
    • 「土方歳三」 函館市文化・スポーツ振興財団HP
    • 「新選組の土方は性格もイケメン!モテモテエピソードと鬼副長の生涯・俳句も紹介」 和楽HP
    • 渋沢栄一 「四人の勇士と争ふ」 デジタル版『実験論語処世談』

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