そんな義続ですが、自分の欲望と本能のままに振る舞ったことで畠山家を追い出された人生を追っていました。
武田信玄の肖像画とされているが、畠山義続の肖像画ともされている/Wikipediaより
今回は義続の欲望にまみれた変態エピソードとその後をご紹介します。
■畠山義続のご紹介
まず、畠山義続のことを知らない方のために義続はどんな人物だったのか解説します。
義続は能登国(現在の石川県北部)を治める能登畠山家の8代目当主に当たります。
また、義続が当主になった天文14年(1545)頃には能登畠山家の家臣団による内紛が勃発。これを抑えることができなかった義続は、責任を取る形で嫡男・畠山義綱に家督を譲り、隠居しました。
その後は、能登畠山家の傀儡化を目論んだ重臣たちが結成した能登七人衆の筆頭・温井総貞(ぬくい-ふささだ)を義綱が誅殺し、権力回復を果たします。
しかし、永禄9年(1566)に権力奪還を計った能登七人衆が武装蜂起。このクーデターは永禄九年の政変と呼ばれ、これにより義続親子は国外追放となりました。
追放後は、縁戚関係だった六角家のもとに行き、永禄11年(1568)に能登奪還を目指しますが、敗れました。
■義続にまつわる変態エピソード
ここからは義続にまつわる変態エピソードをご紹介します。
ある時、義続は家臣たちの娘たちを集めて、お馬責めなる遊びを行いました。
そして、まくれ上がった着物からは陰部が丸見えとなり、それを見て義続は喜んでいました。
■まだまだあった変態エピソード!
これだけでも十分変態ですが、この話には続きがあります。
落馬する娘たちの中で唯一落馬せず馬を乗りこなしている娘を義続は妾にしたいと思い、娘の親・遊佐続光(ゆさ-つぐみつ)に差し出すよう要求しますが、拒否されます。

そこで、義続は続光が留守の時に家に押し入り、娘を強奪。しかも、娘の陰部には毛が生えてなかったので、桃のような陰部をずっと眺めていたそうです。
このような異常行動が家臣たちの愛想を尽かせ、国外追放の要因となったともいわれています。
■最後に
義続は一見すると家臣たちの内紛に巻き込まれた苦労人と思ってしまいそうですが、義続の異常性があったからこそ家臣たちをまとめることができなかったと考えると、自業自得のように思えてしまいます。
もっと当主としての人望があったら、家臣たちの反乱も起きなかったかもしませんね。
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