日本古代史上の最大事件である大化の改新。645年に起きたこの事変で、天皇家を凌ぐといわれる権力を持った古代豪族・蘇我氏の本宗家が滅亡しました。


【前編】では、蘇我氏本宗家の祖・蘇我稲目とその墳墓ではと注目を集めた都塚古墳についてお話ししました。

蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【前編】

【後編】は、いよいよ都塚古墳の被葬者が蘇我稲目かどうかについて、考察していきましょう。

■都塚古墳の被葬者論

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横穴式石室を羨道部からみた都塚古墳。(写真:T.TAKANO)

2014年8月の調査を終えて、都塚古墳の全貌が明らかになるにつれ、新聞各社でその被葬者を蘇我稲目と見なす報道が相次ぎました。

これは、発掘を担当した関西大学の米田文孝教授をはじめ、猪熊兼勝氏、千田稔氏などの著名な学者たちが揃って「都塚古墳の高い技術力、規模の大きさ、そして地域性から考えて、蘇我氏の有力者の墓に違いない」という見解を出したことに基づいてのことでした。

明日香を流れる冬野川流域一帯が、蘇我氏の支配地域であり、蘇我馬子の墳墓として有力な石舞台古墳が近いことからも蘇我本宗家の本拠南端のこの地に、蘇我氏の墓域が設けられたと考えられたのです。

一方で、都塚古墳の被葬者を稲目以外の蘇我氏有力者とする説も唱えられています。代表的な被葬者として、蘇我入鹿(河上邦彦氏)、蘇我小姉君(小笠原好彦)などの説があります。やはり、この地が蘇我本宗家の本拠であったことから、蘇我本宗家ゆかりの人物に比定する説が多いようです。

蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】


石舞台古墳。古くから蘇我馬子の墳墓と考えられてきた。(写真:T.TAKANO)

都塚古墳の被葬者が蘇我稲目ではないとする説の根拠として、稲目が没した570年当時はまだ有力者が前方後円墳に葬られていた時代であったというものがあります。


蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】


蘇我稲目の墓との説がある前方後円墳の丸山古墳。(写真:Wikipedia)

稲目は当時の朝廷首班である大臣であり、都塚古墳がたとえ規模の大きな方墳であっても前方後円墳と比べたら小さいため、その墳墓には考えられないという説です。

しかし、どうでしょうか?いま私たちは蘇我氏4代というと、大王(天皇)家を凌ぐ大権力者というイメージを持ちます。

でも、その権力は馬子・蝦夷・入鹿の2~4代で巨大化したのであり、初代稲目がそこまでの権力を持っていたかどうかは判明していないのです。事実、稲目と並ぶ朝廷首班の大連には、物部尾興が健在していました。

■都塚古墳は蘇我稲目の墳墓なのか

ですから、蘇我稲目が6世後半にその本拠の南端に葬られ(都塚古墳)、続いて馬子が隣接する地に葬られた(石舞台古墳)という推測は十分に成り立つと考えられます。

そして、蘇我本宗家の権力が成熟期を迎えた蝦夷・入鹿の時代になると本拠地は南の甘樫丘付近に移動していくのです。

蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】


大化の改新で倒れた蘇我入鹿の首塚と、蝦夷・入鹿父子が本拠を置いた甘樫丘。(写真:T.TAKANO)

甘樫丘の東麓からは、蝦夷・入鹿の邸宅跡とみられる遺跡が発掘され、隣接する小山田遺跡からは、一辺80mの巨大方墳・小山田古墳が発見されました。

小山田古墳からは、結晶片岩や榛原石の板石の破片が多数みつかっており、都塚古墳同様に、葺石を貼り付けた階段状の方墳であったことも考えられます。小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵とする説も有力となってきています。

蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】


小山田古墳(右端)と菖蒲池古墳(右端)。
蘇我蝦夷・入鹿父子が築いた大陵・小陵に比定する説がある。(写真:Wikipedia)

石舞台古墳の墳丘は、すでに失われています。しかし、墳丘の裾部分に石積みがなされていたことは、今も現地で確認することができます。

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石舞台古墳の墳丘裾部分の現状。石積みがみられる。(写真:T.TAKANO)

こうしたことから、都塚古墳(稲目墓)ー石舞台古墳(馬子墓)ー小山田古墳(蝦夷墓)という葺石を貼り付けた階段状のピラミッド型方墳を、蘇我4代の墳墓と考えることもできるのではないでしょうか。

ただ、そのためには、『日本書紀』の記述のように、小山田古墳の西側100mに位置する菖蒲池古墳が入鹿の小陵でなければなりません。

菖蒲池古墳が入鹿の真墓と判明すれば、都塚古墳ー石舞台古墳ー小山田古墳ー菖蒲池古墳が蘇我本宗家4代の墳墓となり、都塚古墳が蘇我稲目の真墓となる確率が高くなるのですが、この結論に至るにはまだまだ多くの考察が必要だと思います。

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菖蒲池古墳。上段墳丘裾平坦面では礫(石)敷が判明している。(写真:T.TAKANO)

次回も「蘇我氏四代の墓を探る!」として、馬子・蝦夷・入鹿の墳墓についての考察を続けていきたいと思います。どうぞ、お付き合いください。


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