多摩の百姓として生まれながら武士に憧れて剣客となり、仲間たちと京都へ上って大いに暴れ回った近藤たちの生涯は、今も人々の胸を打ちます。
時代に逆らい夢を追い、最期まで闘い抜いた近藤勇。Wikipediaより
今回はそんな近藤から剣統を受け継ぎ、明治以降の近代を生き抜いた剣客・近藤勇五郎(こんどう ゆうごろう。信休)の生涯をたどってみましょう。
■近藤勇の遺志を継ぎ、天然理心流を再興
近藤勇五郎は江戸時代末期の嘉永4年(1851年)12月2日、近藤勇の長兄である宮川音五郎(みやがわ おとごろう)の次男として武州上石原村(現:東京都調布市)に生まれます。
13歳となった文久3年(1863年)2月、叔父の近藤勇が浪士組に加入して京都へ出立する際に勇の一人娘である近藤瓊(たま)の許婚となりました。
「わしに何かあった時は、妻(つね)と娘を頼んだぞ」
「はい!」
近藤勇が第4代目宗家を務める天然理心流の第5代目継承者に指名された勇五郎は、彼らが後顧の憂いなく奉公できるよう大いに意気込んだことでしょうが、待っていたのは近藤勇の処刑。
(義父上……っ!)

処刑された近藤勇の首級。Wikipediaより
慶応4年(1868年)4月25日、江戸は板橋で近藤勇の最期を見届けると、郷里に帰って父・音五郎と共に勇の遺体を引き取りに行きました。
「義父上が安心できるよう、天然理心流宗家は私が立派に受け継いで参ります」
新政府軍の監視があったため、しばらく許婚の瓊、姑のつねと本郷村の成願寺(現:東京都中野区)に隠れ住んでいた勇五郎は、明治9年(1876年)に瓊と結婚、近藤家の婿養子となります。
「さぁ、これから天然理心流宗家を再興させよう!」
近藤勇の生家向かいに剣術道場を開いた勇五郎は、剣客として名高い旧幕臣の山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)に撥雲館(はつうんかん)と命名してもらいました。

撥雲館跡地。Wikipediaより(撮影:立花左近氏)
「撥雲とは雲を払い去るの意……世に立ち込める暗雲を、鋭い太刀風で吹き払い、真に明るく治まる世の一助たらんことを期待しておる」
「ありがとうございます!」
かくして撥雲館は多摩地域を中心に最大3,000人の門弟を抱えるまでに成長し、明治16年(1833年)には長男の近藤久太郎(ひさたろう)も誕生。
■妻や息子に先立たれ……
しかし、よいことばかりいつまでも続かぬもので、明治19年(1886年)6月28日、妻の瓊が25歳の若さで他界してしまいました。
妻に先立たれた寂しさをこらえ切れなかったか、勇五郎はやがて“たよ”と再婚しますが、姑のつねと折り合いが悪かったため、2年半ほどで離婚。
それでも夫婦生活を諦めきれない勇五郎は後に“かし”と再婚。三度目の正直か今度は折り合いがついたようで、次男の近藤新吉(しんきち。正行)を授かりました。
男の子が二人もいれば将来は安泰……天然理心流の後継者として期待していた久太郎でしたが、日露戦争に出征して明治38年(1905年)に23歳という若さで戦病死してしまいます。

日露の激闘。Wikipediaより
「天然理心流の6代目を譲りたいと思っておったのに……そろそろ引退したいが、新吉はまだ幼すぎる……」
というわけで高弟の桜井金八(さくらい きんぱち。義祐)に第6代目宗家を襲名させ、天然理心流の剣統を受け渡したのでした。
晩年は日本の幕末期を知る者の一人として作家の子母澤寛(しもざわ かん)から取材を受けるなど往時の記憶を後世に伝え、昭和8年(1933年)2月23日に83歳でこの世を去ります。
その遺言は「俺が死んでも線香は要らない。
天然理心流の宗家は第7代・近藤新吉、第8代・加藤伊助(かとう いすけ。修勇)……と受け継がれながら今日(第10代)に至ります。
■終わりに
激動の幕末、時代に逆らって見果てぬ夢を追い続け、殉じていった近藤勇。
彼らが憧れた武士の世は遠く過ぎ去り、刀を帯びることもなくなった令和の現代ですが、その精神は剣術をはじめとする武道を通じて、人々に受け継がれています。

武という漢字は「戈(ほこ。武器転じて争い)を止める」と書き、平和を守る力(強さ)と意志(優しさ)を表すもの。
もしいつか機会があれば、勇五郎の墓前に竹刀の音を手向けてあげたいと思います。
※参考:
- 大石学『新選組 「最後の武士」の実像』中公新書、2004年11月
- 歴史群像編集部『決定版 日本の剣術』学研プラス、2012年10月
- 日本古武道協会|天然理心流剣術
- 天然理心流 撥雲会
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