DV(ドメスティック・バイオレンス。家庭内暴力)と聞くと、たいてい「男が腕力にモノを言わせて、か弱い女性に暴力を振るっているのだな。
悪いヤツだな」とイメージしがち。

しかし世の中は広いもので「女性から暴力を受ける男性」もいるらしく、男性トイレの壁にDV相談の広告が貼ってあるのも見たことがあります。

などと話をすると「敗戦後、女性は強くなった(一方、男性は弱くなった)から、今日び男性をねじ伏せるくらいは朝飯前なのだろう」なんて声も聞かれますが、どうも女性が男性に暴力を振るう事例は、昔から散見されたようです。

その極めつけは、殴るに事欠いて天皇陛下をボコボコにしてしまった女性がいたそうで、今回はそんなエピソードを紹介したいと思います。

■いきなり発狂、殴るわ蹴るわの大暴れ

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歌川国芳「小倉擬百人一首 三条院」

今回の被害者は第67代・三条天皇(さんじょうてんのう。在位:寛弘8・1011年~長和5・1016年)。事件は長和4年(1015年)に起こりました。

「きえぇ……っ!」

宮中で仕えていた民部掌侍(みんぶないしのじょう。女官の職名、実名不詳)がいきなり発狂し、忿怒の形相で近くにいた童子に襲いかかります。

「わぁっ、やめて、痛いよう……っ!」

この世の者とも思えぬ馬鹿力で殴る蹴るの暴行を受けながら、訳も分からず童子は泣き叫ぶばかり。

「そなた、何をするのだ……止めろ!」

童子の悲鳴を聞きつけ、真っ先に駆けつけた三条天皇は、童子を守るために抱きかかえました。

(民部掌侍を取り押さえた方がより確実と思われるものの、荒事には慣れていなかったであろうことと、童子を守らずにはいられない優しさが陛下をしてそうさせたのでしょう)

尋常の者であれば、ここで正気に返って大不敬を謝するところですが、民部掌侍は何人たりとも構うことなく、叫び狂いながら殴る蹴るを続けます。


「ぎゃあ~ぎゃあ~ぎゃあぁ……っ!」

「止めろ……止めるのだ!」

民部掌侍はそれでも暴行をやめず、結局後から駆けつけた蔵人(くろうど。男性の官人)らによって取り押さえられたのでした。

「ふぅ……」

すっかりボロボロになってしまった三条天皇の姿を見て、その労(いたわ)しさに誰もが涙せずにはいられません。

「この万死に値する不敬者は、極刑をもって処断すべきでしょう!」

常識的にそう思われましたが、どういう訳かそうはなりませんでした。一体なぜでしょうか。

すべて悪霊の仕業!?平安時代、天皇陛下をボコボコにしてしまったトンデモ女官の逸話


藤原道長。菊池容斎『前賢故実』より。

「……わたくしが解説いたしましょう」

訳知り顔で表れたのは、左大臣の藤原道長(ふじわらの みちなが)。

「この女もむしろ被害者なのです」

一体どういうことか……道長の曰く、今回の暴行事件は悪霊が引き起こしたものであり、その悪霊はもともと三条天皇に憑りつき、苦しめていたところ、加持祈祷の成果によって三条天皇から追い祓われ、民部掌侍に乗り移ってしまったのだとか。

「すべては悪霊が悪いのですから、この女は無罪放免とすべきでしょう。むしろ陛下の代わりに悪霊を引き受けたのですから、その献身を褒めてもよいくらいかと」

ニヤニヤしながら道長は続けます。

「そもそも、男が女に殴られたくらいであれこれ騒ぎ立てるのは、いささかみっともない気がせぬでもありませぬゆえ、ここは不問に処されるがよいかと……」

「むぅ……」

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民部掌侍に乗り移った悪霊(イメージ)

腑に落ちない三条天皇でしたが、結局のところ民部掌侍については不問とされたのでした。


もしかしたら、彼女は道長の息がかかっていたから、屁理屈をこね出してかばったのかも知れません。

■エピローグ

その後、三条天皇は道長からの圧力によって第二皇子の敦成親王(あつひらしんのう。後一条天皇)に譲位させられ、間もなく出家。

寛仁元年(1017年)5月9日に崩御され、42歳の生涯に幕を下ろしました。

心にも あらでうき世に ながらへば
恋しかるべき 夜半の月かな

※『小倉百人一首』より、六十八番 三条院

【意訳】もはやこの世に未練もなく生きているが、今夜の月の美しさばかりは名残惜しい……

すべて悪霊の仕業!?平安時代、天皇陛下をボコボコにしてしまったトンデモ女官の逸話


「古々路耳も あらてこの世に な可らヘハ 恋しかるへ支 夜半の月哉」菱川師宣『小倉百人一首』より

こちらは三条天皇が譲位に際して詠んだ御製(ぎょせい。天皇陛下の詠まれる和歌)ですが、権力を壟断する道長はじめ藤原一族との政争に疲れ果てた様子が偲ばれます。

(それでも私は、誰も傷つけたくはなかった。藤原家の壟断から、大切なものを守りたかった)

藤原一族の傀儡にはなるまいと、限られた状況下で苦闘し続けた三条天皇の生涯は、まるで民部掌侍に殴られ蹴られしながらも稚(いとけな)い童子を守り抜いた姿に象徴されるようです。

※参考文献:

  • 繁田信一『殴り合う貴族たち』角川ソフィア文庫、2008年11月
  • 堀江宏樹ら『乙女の日本史』東京書籍、2009年7月

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