中世日本で活躍した、鉄砲傭兵・地侍のグループです。
そこで、今回の記事では、そんな雑賀衆についてご紹介したいと思います。
■雑賀衆とは?
合戦の多かった戦国時代。紀州北西部を拠点に活躍した鉄砲集団です。その実力は日本一とうたわれました。そんな最強集団を率いたのは、「雑賀孫市[まごいち](または鈴木 孫一)」という人物でした。彼は、地域の有力者であり、侍集団を率いた武将でもありました。
『太平記英勇傳 鈴木孫市』落合芳幾 画
彼は、かの司馬遼太郎からも豪傑な人物として愛され、行動力だけでなく、たしかな人望もあったといわれています。

そんな彼が率いた雑賀衆は、5つの地域(「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」)の地侍からなり、「紀州惣国」や「雑賀惣国」などとも呼ばれました。
■雑賀衆と鉄砲
ちょうど鉄砲が伝来したタイミングになると、それをいち早く取り入れ、16世紀なかごろには優秀な鉄砲集団へと成長しました。

当時、どのように鉄砲を一定量用意できたのかは明らかになっていませんが、鉄砲の材料となる硝石が雑賀はもとより日本国内でも生産されていなかったことから、外国から輸入したのではないかと言われています。
これについても、雑賀衆は海運を営んでいたことから、簡単に手に入れることができたのではないかと考えられています。
■雑賀衆と織田信長

織田信長
織田信長と一向宗の総本山である本願寺が対立した際には、雑賀衆は本願寺側に味方します(雑賀の土地には一向宗のお寺が多かったことが理由です)。
彼らは大活躍し、特に信長が海上ルートを封鎖しようとした際には、貿易に強みがあった雑賀衆が撃退しています。信長はこれにより苦戦を強いられ、両家はその後10年にもわたる争いとなりました。
いかがでしたか?
この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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