■イカサマで関白になった豊臣秀吉

豊臣秀吉は「関白」というポストを手にしたことで、天下人としての地位を確固たるものにしたとされています。しかし、朝廷の与えるポストに実質的な意味はあったのでしょうか?

今回はそのような観点から、武家社会と朝廷のポストの関係について考えてみたいと思います。


明智光秀を山崎の合戦で破り、信長の後継者となった秀吉は1585(天正13)年に関白の地位を手に入れます。これで彼は晴れて天下人となったわけですが、実はこれは実力に伴ってついてきたわけではなく、「実力の足りない分をポストで補おうとしたのではないか」という説があります。

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歌川貞秀 作「山崎大合戰之図」

ポイントになるのは、徳川家康の存在です。

この時、秀吉にとって家康は、簡単には打ち負かすことができない敵でした。もし全力で戦って勝ったとしても大ダメージを負うのは必至で、四国・九州・関東・東北にまだまだ敵対(するかも知れない)勢力がいる中で、それは避けたいところでした。

そこで秀吉は、朝廷のポストを利用することにしました。

実力があったから官位を与えられたのではないのです。家康を従属させるための方策として、官位を利用しようとしたのです。

その証拠に、秀吉はイカサマをしています。朝廷内にある記録を改竄し、自分が過去に重要な官職に就いていたことにしているのです。その経歴に基づき、彼は関白という地位を手に入れたのでした。

■「官位」という有名無実の肩書き

朝廷は手続きにうるさい組織ですが、裏を返せば手続きさえ整っていれば、後はお役所仕事で通ってしまいます。
晴れて関白の地位を手に入れた秀吉は、家康に大納言の地位を与えて、上下関係を確立させます。

こうすることで、傍目にも、家康よりも秀吉が偉いかのような状況ができあがります。こうして彼は、実力では勝てない徳川家康を形式上従属させることにしたのです。

では、関白の地位を手に入れたから秀吉に何かできるのかというと……特に何もありません。

関白と言えば「亭主関白」なんて言うくらいですから何でもできる権力を持っているようですが、だからと言ってやること・やれることがあるわけではないのです。

こうした実態は、いわゆる秀次事件でも明らかです。秀吉は、後継ぎと目していた息子が亡くなるとガッカリして関白職を甥の秀次に譲ってしまいました。ところが秀頼が生まれると、「やっぱりあの話はなしで」とばかりに秀次は殺されてしまいます。官位も何もあったもんじゃありません。

秀吉の「関白」の位は大したことがなかった!?歴史上の“天下人”たちと朝廷とのビミョーな関係


豊臣秀頼(wikipediaより)

またこうしたことは秀吉に限ったことではありません。

信長もいわゆる三職推認問題で、朝廷から提案された関白か太政大臣か将軍のどれを選ぶつもりだったのかが謎として残っていますが、「本当はどうでもよかったのではないか」という説もあります。実際、彼は一度右大臣に就いたもののすぐ辞めたという経歴があります。


■征夷大将軍でなくても権力者は権力者

現代の歴史学の定説でも、源頼朝や足利尊氏のような天下人たちは征夷大将軍の地位を与えられたから幕府を開くことができた、という形で因果関係を定める考え方は支持されていないようです。

実際には朝廷から与えられる地位など関係なく、それよりも前の時点で彼らの「実力」によって幕府は成立していた、ということです。

ではその後の家康はどうだったかというと、一応征夷大将軍のポストに就いてから幕府を開いていますが、実際にはすでに関ケ原の戦いの直後にはものすごい権力をふるい、戦いに関与した大名たちの処遇を決めています。

秀吉の「関白」の位は大したことがなかった!?歴史上の“天下人”たちと朝廷とのビミョーな関係


徳川家康(wikipediaより)

味方として戦ってくれた大名の領地は増やし、敵になった大名は領地没収。完全に刃を向けてきた大名は切腹……と、この容赦のない裁きぶりと権力の発揮は、東京裁判を思わせます。何も征夷大将軍のポストを与えられなくても、これぐらいのことは既にできたのです。

子供の頃に教科書で習った日本史の定説が、最近はいろいろと覆されています。中でも「鎌倉幕府の成立は1192年じゃない」というのは、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」で覚えてきた世代にとっては衝撃的ですが、その根拠は、武家社会と朝廷のこうした関係性の実態にあるんですね。

参考資料
本郷和人『日本史の法則』(河出新書)2021年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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