一方、為政者の立場からすると一円一銭でも多く取り立てて豊かな財源を確保したいものの、その結果として国民が飢えてしまっては、何のための税金か分かりません。
税金の徴収は国民生活をかんがみて柔軟に行われるべき……そんな事例が、古代日本にありました。
そこで今回は『日本書紀(にほんしょき)』より、第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)のエピソードを紹介したいと思います。
■民のかまどはにぎはひにけり……年貢免除の英断
時は仁徳天皇4年(316年)3月のある日、仁徳天皇は自分の治める領地を視察するため、高台に上って集落を見渡しました。
「ん?」
もう夕暮れ時だと言うのに、炊飯の煙が立ち上っていません。あの辺りには、確か人が住んでいるはずですが……。
村の異変に、いぶかしむ仁徳天皇(イメージ)
「何かあったのか」
「いえ、それが実は年貢が重すぎて、炊いて食うだけの米穀が手許に残っていないのです」
それを聞いて、仁徳天皇は反省しました。蔵には食べきれないほどの食糧が山のように積まれているのに、民を飢えさせてしまっては、為政者としての資質が問われます。
「そうであったか……ならば全国に『これより三年間、年貢を免除する』旨を布令せよ」
「ははあ」
民が富まねば国力も高まらぬ……いきなり極端ではありますが、改革というのは中途半端では効果が出ないと思ったのでしょう。ともあれ仁徳天皇は3年間の年貢免除を申しつけ、様子を見ることにしました。
果たして3年が経った仁徳天皇7年(319年)9月、再び民の様子を視察しますが、よほど国土が疲弊≒収穫量が減少してしまっていたのか、やはり炊煙は上っていません。
「もう3年、年貢を免除する!」
その間、仁徳天皇たちがどうやって生活していたかと言えば、民と同じく自ら田畑を耕し、狩猟や採集などして糊口をしのいでいたようです。
「やれやれ……この6年間で、いかに自分が国民たちに支えられて来たのかがよく解ったわい……」
そして仁徳天皇10年(322年)、ようやく国力≒収穫量が回復してきたようで、あちこちに炊煙が立ち上るようになりました。
「「「やったぁ!」」」
民の暮らしがようやく上向いてきた……仁徳天皇らは、まるで我が事のように喜んだことでしょう。

民のかまどから立ち上る煙(黄丸部分)を喜ぶ仁徳天皇。楊洲周延「東錦昼夜競 仁徳天皇」
高き屋に のぼりて見れば 煙立つこうしてようやく年貢の徴収されたものの、それまで朝廷では生きるのに精一杯で宮殿もボロボロ。屋根の葺き替えすらできず、穴が開いて星が見えるほどです。
民のかまどは にぎはひにけり
仁徳天皇 御製
【意訳】宮殿の高楼から見晴らす村々から煙が立っている。国民のかまどが賑わって=生活が潤って嬉しいことだ……。
「修繕費用のために追加徴税したら、今まで苦労して来た意味がない……さてどうしたものか……」
すると困っていた仁徳天皇の元へ、大勢の民衆が押しかけて来ました。
「陛下、今度は俺たちが恩返しをする番だ。なぁみんな!」
「「「おう!」」」
「そなたたち……」
有志が集まって宮殿を修繕し、再び元通りの暮らしができるようになったということです。
■終わりに

仁徳天皇陵。その広大さが遺徳を偲ばせる。Wikipediaより(撮影:Saigen Jiro氏)
その後、もう二度と民が飢えることのないように、と仁徳天皇は大規模な灌漑工事を実施するなど国利民福の増進に努め、その仁政から崩御の後に仁徳天皇と諡(おくりな)されたのでした。
税金は無尽蔵のATMではなく、また民が富まねば国は強くならない……そんな仁徳天皇の教訓、そして皇室と国民の絆を、末永く大切にしていきたいものですね。
※参考文献:
- 青山繫晴『誰があなたを護るのか-不安の時代の皇』扶桑社、2021年6月
- 家永三郎ら『日本書紀(二)』岩波文庫、1994年10月
- 若井敏明『仁徳天皇 煙立つ民のかまどは賑ひにけり』ミネルヴァ書房、2015年7月
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