「裁きを申し付ける!」
町奉行大岡 助高屋高助」(豊原国周、1879年)
奉行が判決を下しうなだれるお白洲の被疑者。時代劇でど定番の光景ですね。
きょうは雨だから取り調べなし~なんて、いい加減なことは曲がりなりにも「お役所仕事」であるはずがありません。
奉行所には、奉行が着座する「裁許所」の前に「上縁・下縁」という二段の板縁があり、その前方下に公事場(お白洲)があります。
天保13年の「町奉行所図」には「仮白洲」部分に「此上仮屋根」とあり、図面では公事場は裁許所と同じ色に塗られています。屋内の土間に砂利を敷いてお白洲として用いているというのが実情のようです。

○で囲った箇所に「この上天井」とあります(町奉行所図、国立国会図書館)
ではなぜ白洲は外というイメージになったかというと、時代劇の撮影で屋内照明を準備するのが大変だから、ということのようです。確かにうつむく下手人の顔をどう照らすか考えるのは面倒ですね。
■机の上で蕎麦をすする光景はなかった
江戸といえば町人文化、町人といえば蕎麦。
蕎麦屋といえば格子状の衝立で仕切られ、木製の四角い背もたれのない椅子に座り、木製のテーブルの上で蕎麦をずるずるっとやる、現代の蕎麦屋とあまり変わらない光景を想像する人も多いでしょう。
しかーし、テーブルとイスというものは、西洋から入ってきたものです。撮影ではいかにも日本的な色や素材を使っているので違和感なく見ることができてしまいますが、近代の日本まで無かったものです。
では昔の人はどうやって食べていたのでしょうか?
浮世絵をみると、台に座り、お盆に載せられた椀を手に取って食べるというスタイルです。

「東海道五十三次 見附」葛飾北斎、1804年
■御用改め…提灯の正面は「御用」じゃなかった

ほとんどの時代劇では提灯の正面に大きく「御用」と書かれていますね。
しかし正式な町奉行所の御用提灯は、「御用」の文字は左右二カ所に縦に書かれており、正面には「北町奉行所」など奉行所の名前が書かれていました。
ただ、御用提灯は何も捕り物や取り調べのときだけに使うもの、というわけではなく、幕府のさまざまな用事の時に使われたので、正面に「御用」と書かれたものも存在します。
なんにせよ奉行所が使うものとして時代劇で使用する提灯は、視聴者に向けてわかりやすく正面に書いてあるということですね。
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