もちろん、小西行長や大谷吉継などの西軍の武将たちは討ち死にや斬首といった形で処刑されましたが、裏切った武将たちは関ヶ原の戦い後、どうなったのでしょうか。
今回は天下を2分した関ヶ原の戦いの中で、関ヶ原の戦い本戦において小早川秀秋や吉川広家をはじめとした西軍を裏切った武将たち6人のその後に迫っていきたいと思います。
小早川秀秋/Wikipediaより
■西軍の武将たちが寝返るきっかけとなった小早川秀秋
まずはじめは小早川秀秋です。

小早川秀秋/Wikipediaより
関ヶ原の戦いで秀秋は1万5000の兵を率い、松尾山に布陣していました。ほぼ主力に近い数の兵を従えていましたが、知っての通り秀秋は西軍から東軍へ離反。
これにより有利だった西軍は総崩れとなり、東軍の勝利で幕を閉じました。
関ヶ原の戦いで東軍勝利に一役買った秀秋は、その戦果として宇喜多秀家が所有していた岡山領55万石を加増されました。
しかし、秀秋は慶長7年(1602)に急死。秀秋の養子先だった小早川家は後継ぎがいなかったことにより、断絶しました。また有していた土地も改易となりました。
■訳アリで東軍に参加できなかった脇坂安治
2人目は脇坂安治です。

脇坂安治/Wikipediaより
安治は関ヶ原の戦い前に徳川家康率いる東軍に加担する内容の書状を送り、家康もそれを理解していました。
戦いの最中、秀秋が東軍に寝返ったことを機に安治も離反。戸田勝成の部隊を壊滅させました。
戦後は事前に家康の味方することを書状で述べていたことを配慮し、お咎めなく所領安堵。その後は元和元年(1615)に家督を次男に譲り、寛永3年(1626)に病死しました。
■織田信長を助けたことのある朽木元綱
3人目は朽木元綱(くつき-もとつな)です。
元綱は2歳で家督を継承し、元亀元年(1570)での金ヶ崎の退き口で織田信長の撤退を助けた武将です。この撤退は朽木越えと言われています。
関ヶ原の戦いの際、元綱は藤堂高虎に東軍へ寝返る調略を受けていました。そして、秀秋に呼応して東軍へ加担。

藤堂高虎/Wikipediaより
戦後は内通する意思をはっきりさせなかったため、減封処分を受けました。しかし、減封されたものの、所領は豊臣家に仕えていた時と変わらないため、実質的に所領安堵といえます。
その後は元和2年(1616)に出家し、寛永9年(1632)に亡くなりました。
■大名でしたが、小早川秀秋の与力だった赤座直保
4人目は赤座直保です。
直保は父とともに朝倉家に仕え、滅亡後に織田信長、豊臣秀吉と主君を変えた武将です。天正18年(1590)での忍城の戦いの功績により、越前国(現在の福井県北部)今庄2万石を所持していました。

大谷吉継/Wikipediaより
関ヶ原の戦いでは大谷吉継の元で戦っていましたが、小早川秀秋の寝返りを機に東軍の味方へ。しかし、高虎から受けた東軍に寝返る返答をうやむやにしたままの寝返りだったので、加増も所領安堵もされずに改易となりました。
その後は信長の時代から関係のあった前田家の元でお世話になっています。長くは続かず、慶長11年(1606年)に越中国(現在の富山県)にある大門川の氾濫調査の際、濁流に飲まれ溺死しました。
■石田三成と懇意だったため、重い処分を下された小川祐忠
5人目は小川祐忠(おがわ-すけただ)です。
祐忠は浅井家に仕えていましたが、元亀元年(1570)の姉川の戦いを機に織田信長に仕官。信長死後は明智光秀、柴田勝豊(柴田勝家の養子)を経て、豊臣秀吉に仕えます。
また、信長から茶会を開く許可を貰っていたり、慶長3年(1598)に開かれた醍醐の花見では8番まであった茶屋の3番目を任されていたりと、茶人としての一面も持っています。
そんな祐忠は関ヶ原の戦いでは、2500人の兵と吉継近くの陣にいました。高虎の調略で内通していたので、秀秋が西軍を裏切ったことを契機に祐忠も西軍を離反。祐忠家臣が平塚為広を討ち取る功績を残ります。

平塚為広/Wikipediaより
しかし、裏切る意志を戦いの前に明確にしなかったことを家康に咎められ、死罪を言い渡されます。幸いなことに、東軍で功績を残した親族の一柳直盛の助けで、祐忠は死よりも軽い改易を言い渡されました。
死罪という重い刑を言い渡されたのは、祐忠自身が素行が悪かったこと、石田三成と親しい関係だったことがあげられます。その後は京都で隠居しました。
■主家のための裏切りが仇に出た吉川広家
最後に紹介する人物は吉川広家です。

吉川広家/Wikipediaより
広家は関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わることを確信していたため、主君の毛利輝元が西軍の総大将になることを拒否。
同じ毛利家の人間で輝元を総大将に押す安国寺恵瓊と対立しました。
そして、関ヶ原の戦い本戦での広家は密約通りに兵を動かさず傍観。広家が動かないと兵を動かせない毛利秀元や長曾我部盛親の動きを抑えました。

長曾我部盛親/Wikipediaより
この時、広家は「兵たちに食料を食べさせているから動かせない。」と言ったことから「宰相殿の空弁当」と名付けられています。
関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わり、密約通り毛利領安堵が約束されるかと思いきや、毛利領が改易される事実を耳にしました。これに広家は毛利家を残す代わりとして、自分自身も毛利家と同じ罰を与えてほしい内容の起請文を家康に送ります。
広家の嘆願のおかげで、毛利領は減封処分を下されました。

毛利秀元/Wikipediaより
広家も14万石あった領地が3万石に減封。それに加えて、毛利家からは冷遇されることになります。また、一連の行動の事実を知った秀元は、広家に大激怒。以後広家と秀元は子々孫々まで確執が残りました。
■最後に
6人の関ヶ原の戦い後を振り返ってみると、秀秋は加増、広家は減封、安治と元綱は所領安堵、直保と祐忠は改易とそれぞれ違う処分を受けています。
事前に意思をはっきりさせるかさせないかで処分が決まったわけですが、裏切りには代償が伴うように、後年の評価や失敗すれば死に繋がるリスクが大きいことが考えられます。
いつの時代も裏切りには厳しい目が向けられるので、裏切りはしないようにしたいですね。
参考:渡邊大門 『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか – 一次史料が語る天下分け目の真実』PHP研究所
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan