■皇居はなぜ江戸城の「本丸」に置かれなかった?

現在の「皇居」は明治天皇の江戸城入りによってできたものです。1868(慶応4)年9月8日に元号が明治と改められて、「江戸城」は「東京城」と改称されたのですが、その時に明治天皇が入ったのは江戸城の本丸ではなく、西の丸でした。


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皇居の二重橋

こうして江戸城は天皇が住まう宮城(皇居)となり、西の丸御殿に「明治宮殿」が建設されました。今も皇居が西の丸に置かれているのはこの時以来の流れです。

しかし、このことを本で読んで不思議だったのは、なんで江戸城の中心部分である「本丸」ではなくわざわざ「西の丸」に明治天皇は皇居を設けたのかということです。

そこで調べてみると、答えは簡単で、「江戸城の本丸御殿は焼け落ちていた」のです。1863(文久3)年の火災で丸焼けになり、その後は幕府も財政難と幕末期の混乱で再建どころではなく、そのままになっていたのでした。

現在の皇居が「再建されなかった火災現場の隣」にあるのだと考えると、なんだか変な感じですね。

■幕末期に江戸城を見舞った災禍

本丸と言えば幕府の将軍のいわば「本邸」です。それが失われた江戸城が、今度は皇居になったのですから、それだけでも“激動”という感じがしますね。しかもこの経緯をたどっていくと、最後の将軍である徳川慶喜の動向とも関わってくるところがあり、どことなく江戸幕府の落日を象徴しているようで感慨深いものがあります。

1853(嘉永6)年の黒船来航がきっかけとなって、江戸幕府は試練の時期を迎えるわけですが、実はこの時期は大火事が連続して起きた時期でもありました。

皇居はなぜ江戸城の「本丸」に設置されなかった?江戸幕府の落日と権力者の悲哀


黒船来航。画像は1854年に再び日本を訪れて横浜に上陸したペリー一行を描いたもの(wikipediaより)

江戸城の本丸御殿はこのちょっと前の1844(天保15)年と、先述した1863(文久3)年に焼けています。
また二の丸御殿も、同じく1863年と1867(慶応3)年に焼け、西の丸御殿もやはり1863年と、その少し前の1852(嘉永5)年にそれぞれ全焼しています。

特に1863(文久3)年の火災が凄まじいですね。ぜんぶ焼けています。

喧嘩と火事は江戸の華、などという言葉がありますが、時の権力者の居宅がこれほどまで焼けるのは異常です。江戸全体を見ても、1851(嘉永3)年から1867(慶応3)年までの17年間では506回もの火事が発生しており、これは結局のところ、幕府の権力低下による治安の悪化が大きく影響していると言われています。

もちろん、ある時期までは幕府も再建を試みています。しかし先述の財政難と政治的困難のため、本丸御殿は1863年、二の丸御殿は1867年の焼失以降は再建されることはありませんでした。

ではそれで政治は成り立ったのかというと、大丈夫だったようです。幕末の動乱期で、将軍は京都へ行ったままですし、参勤交代もグダグダになっていたことから、西の丸御殿だけでもなんとかなったんですね。

この、「なんとかなった」というのも哀しい話です。そしてこの、とても寂しい状態の江戸城でほんの少しだけ治世を行った将軍が徳川慶喜でした。

■最後の将軍、そして最後の江戸城

ご存じの通り、彼は1868(慶応4)年1月3~6日までの4日間に渡って繰り広げられた鳥羽・伏見の戦いのさ中、開陽丸で大阪城から逃亡しています。
そして11日に品川沖に入り、12日に西の丸御殿に入城しました。

この記述は私も何度も目にしていたのですが、この時彼が入ったのがなぜ「西の丸御殿」だったのか、最初は意識していませんでした。実はこの時の江戸城は、本丸が丸焼けになった切ない状態だったのです。

そして、彼はこの時すでに新政府に対する恭順の意志を示していました。反対派を押し切って老中職の廃止、主戦派の罷免、勝海舟を陸軍総裁に任命するなど、幕府解体と最低限の組織再編のための手続きを大急ぎで行っています。そして2月12日には江戸城を出て、上野の寛永寺で謹慎生活に入りました。

皇居はなぜ江戸城の「本丸」に設置されなかった?江戸幕府の落日と権力者の悲哀


寛永寺清水観音堂

考えてみると、彼が将軍職に就いたのは京都でのことでしたし、将軍として江戸城に君臨した期間はほんの僅かな期間でした。しかも最後は実質的に「後始末係」みたいな役割だったことになります。

今では私たちは江戸城の跡を「皇居」として見慣れていますが、建物の歴史をたどってみるだけで、権力者たちの落日とそのドラマを垣間見ることができるのは興味深いことです。

参考資料
・dメニューニュース「最後の将軍」徳川慶喜と江戸城 延々たる後半生をまっとうした希有な権力者」
・国立公文書館「変貌-江戸から帝都そして首都へ-5.江戸城を皇居と定め東京城と改称」

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