戦前の日本史について「なぜ日本はあの戦争を避けられなかったのか」というテーマで調べていると、満州国の建国を国際連盟が認めなかった、という話が必ず出てきます。
関東軍が「暴走」して作ってしまった満州国。
歴史の教科書では、この「非難勧告」を受けて頭に来た日本全権団が、席を立ち椅子を蹴って、「国際連盟から脱退する!」と宣言してその場を後にした……みたいなニュアンスのことが書かれています。
しかしそれが本当なら日本は国際連盟から脱退して、国際社会で孤立して、西欧諸国と対立していたはずです。それなのにその後、経済制裁も何も受けていません。この時本当は一体何があったのでしょうか? 日本と国際社会の関係は、悪化していなかったのでしょうか?
国際連盟総会の第1回会合は、1920年11月15日にジュネーブのSalle de la Réformation(改革の間)で開催されました(Wikipediaより)
戦前の日本は、戦後にイメージされるような、骨の髄まで軍国主義に染まった侵略国家などではありませんでした。政府も、中国で関東軍が「暴走」してなし崩しに満州国が建国されてしまったのを国際関係的に非常にまずいと考えていたのです。
で、日中関係を少しでも修復するために、当時の斎藤内閣が取った手段が「リットン調査団(国際連盟日支紛争調査委員会)の派遣」でした。当時の幣原喜重郎外相の発案で、「満州国が是か非か、中立のイギリスから調査してもらって国際連盟で結論を出してもらおう」ということになったのです。
当時は日本とイギリスは大変仲が良かったので、日中関係の改善のためにイギリスに取りなしてもらおうというわけです。

中華民国の上海に到着した国際連盟日支紛争調査委員会調査団一行(Wikipediaより)
実際には、調査する前に日本の議会で満州国が承認されてしまうという不測の事態が起きて、リットン卿を怒らせてしまうというすれ違いが起きたりもしました。ともあれ、調査は完了します。
■松岡洋右「堂々退場」の理由
この報告書をめぐって国際連盟の臨時総会が開かれました。

1932年、満州事変について国際連盟で演説する中国代表団(Wikipediaより)
そして日本全権団の松岡洋右は「さようなら」と言って「堂々退場」したと、当時の新聞ではなんだか勇ましくカッコよく報道されました。表面的なところだけ見ると、確かに日本と国際連盟がケンカして日本が椅子を蹴って飛び出したようにも見えます。しかし実際は全然違っていたのです。
日本が国際連盟の各国から「非難勧告」を受けること自体は問題ではありませんでした。それで規約に何か違反したことになるわけでもないし、除名や経済制裁も受けません。日本としては「諸説あります」「皆さんとは見解が違います」と不服を申し立てる形で意見を述べれば済む話でした。
実際、松岡も当初はそうする予定で、もともとチェコスロバキアやイギリスに根回しをして国際連盟に残れるようあれこれ手を打っていました。
彼ら日本全権団は、非難勧告が決議されたからと言って別に「堂々退場」せずとも、とにかく会議は終わったのだから普通に帰ればよかったのです。それなのになぜ、脱退を宣言して「堂々退場」したのか。
ひとつ重要なのは、この「非難勧告」を受けた国が、それを理由として何かしらの軍事行動に出た場合は、これは規約違反と見なされて経済制裁を受ける可能性があったという点です。
日本にはこの時、最悪のタイミングで今にも軍事行動を起こしそうな人たちがいたのです。
■熱河作戦の前に脱退せよ!
関東軍は熱河作戦をやる気満々だったので、もし非難勧告の直後にやられたら、もう完全に連盟の規約違反に該当し経済制裁は免れません。これは何としても避ける必要があります。
だから松岡は先手を打ったのです。熱河作戦を実行される前に、「国際連盟抜けます」と意思表示をしておけば、連盟も脱退する国にわざわざ制裁などしません。
また、実際には脱退を宣言しても正式に脱退するまで2年間の猶予がありました。ほとぼりが冷めたら脱退を取り下げる、という選択肢があったのです。連盟側も事情は分かっていて、日本がそうするならと深追いをする気はありませんでした。
だから松岡は、「脱退の意志」をはっきり見せつけるために有名な「堂々退場」をしたのです。ここで脱退するかしないか曖昧な状態で去り、この直後に熱河作戦が行われたらまずい。
なんだかルールの隙間をかいくぐるようなアクロバティックなやり方ですが、結果的にこれは成功しました。本当に間一髪のタイミングで、熱河作戦はまさに松岡が「堂々退場」したその日に実行されていたのです。彼は会場を去る時、「失敗した、失敗した」と口にしていたそうです。

松岡洋右(Wikipediaより)
当時の日本が、国際連盟を脱退しても、必ずしも国際社会と対立したり孤立したりしなかったのにはこういう事情があったのです。
表面的には、起きたことは動かしようがありません。しかしこうした舞台裏を知ってみると、日本の置かれた立場の苦しさと松岡の苦労が感じられますね。
戦後は、松岡洋右は歴史記述の中で何かと責められがちな人ですが、この時はきちんとした使命を持って会議に参加していました。
そして会議のさなかも外務省からの指示に翻弄されながら、最後にはギリギリのところで日本が経済制裁を受けることをかわすという役割を果たしていたのです。
参考資料
井上寿一『教養としての「昭和史」集中講義』SB新書、2016年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan