今回は、後世で「聖徳太子」と呼ばれるようになる厩戸皇子(うまやとおうじ)という人物の、具体的な役職や仕事は何だったのか? というテーマです。
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)(Wikipediaより)
『日本書紀』によると、この厩戸皇子については「厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。
これが、推古天皇(額田部皇女)が即位した西暦592年12月の翌年4月の出来事とされています。この「仍りて録摂政らしむ」の記述があったことから、厩戸はこの時にいわゆる「摂政」になったとされています。
摂政と言えば、後に平安時代の藤原氏が独占したあのポストです。ただこの解釈には現在、疑問が呈されています。
この文章、素直に読むと「政を録摂させた」と述べているだけです。録摂というのは「まとめる」「統括する」という意味ですから、摂政という役職に就いた、とは読めません。
またこの当時、574年生まれの厩戸皇子は当時数え年で20歳です。国政に関わるにはちょっと若すぎます。当時は政治に関わるには政治上の経験、人格的な成熟度が重要視されており、当時は30歳にならないとそういう意味では認められない傾向がありました。
というわけで、厩戸皇子が推古天皇の即位の直後に摂政という重要ポジションを任された、というのはちょっと怪しいのです。
彼が確実に政治家としての手腕を発揮し始めたのは、30歳になった頃です。これも『日本書紀』に記述があり、彼は601年2月から斑鳩宮の造営を始め、32歳となる605年10月にはこの宮殿に引っ越しています。
斑鳩宮のような宮殿は、当時、王族の中でも特に有力な王位継承者と目された者だけが住むことが認められていました。厩戸はここに居住するのと同時に、財産の管理・運営を行いました。今で言えば「官邸」のようなものです。

法隆寺東院伽藍・夢殿。聖徳太子の斑鳩の宮の跡とされる
少なくともこの時点では、厩戸の地位や役割はかなりのものだったに違いありません。
『日本書紀』の記述通りなら、20歳で政治の世界に関わるようになってから、彼は10年ほどで大出世を遂げたと考えられます。
■聖徳太子は○○大臣?
では具体的に、30代になった厩戸はどのような役割を負わされていたのでしょうか。
これは、斑鳩という地域にヒントがあります。例えば当時の飛鳥は、推古天皇や蘇我馬子の本拠地でしたが、ここは当時の政治の中心でした。
ということは、厩戸は当時の「外務大臣」だったのではないかと思われます。斑鳩宮という官邸を本拠地にして、ここで彼は大陸を相手に政治を行っていたのでしょう。
ちなみに教科書的な知識では、冠位十二階や憲法十七条は厩戸皇子が制定したとされていますが、その証拠はありません。聖徳太子という人物が実際にどういう役割を与えられ、何をやったのかというのは、意外にはっきりしていないのです。

聖徳太子が建立した日本仏法最初の官寺・和宗総本山 四天王寺
このため「聖徳太子は存在しなかった」という説もありますが、それはどちらかというとトンデモの部類に入ります。ここでは、厩戸皇子は外交を任されていたのだという説を採りたいと思います。
そういえば厩戸が外相に就任したのは、中国を中心とした東アジア情勢が大きく変動する時期でもありました。このような情勢の中、彼は遣隋使などの政策を実施していったのではないでしょうか。
参考資料
・遠山美都男・関幸彦・山本博文『人事の日本史』朝日新書・2021年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan