12月25日といえばイエス・キリストが誕生した日です。キリスト教にとっては、その前夜ともに非常に重要な祭日とされていますね。
ところで、日本史を広い視野で俯瞰してみると、日本人はキリスト教の受容と拒絶を繰り返していることが分かります。
まあ受容と言っても、遠藤周作の『沈黙』などを読むと、日本人はキリスト教を本当に宣教師の望んだ形で理解していたのだろうか? と考えさせられることもありますが……。
それはともかく、では「クリスマス」というイベントについては、日本人はどのように受け止めてきたのでしょうか。
■クリスマスはあの武将も一時休戦!?
これについては面白い話があります。日本初のクリスマス行事が行われたのは1552年の12月24日と言われており、山口県で宣教師のフランシスコ・ザビエルが信者を集めて開催したそうです。
これが、少し時代が下って1568年になると、各地でイベントが行われる程に広まっていました。
ちなみにあの松永久秀が、三好三人衆らと争っていた1565(永禄8)年かあるいはその翌年、クリスマスを口実に休戦したという逸話もあります。なぜか松永はクリスマスと縁があり、織田信長ともクリスマスを口実に休戦したこともあると言われています。

松永久秀
この頃のイベントの内容も盛大で、複数残されている書簡から様子を伺うことができます。多くの人が教会でロザリオを使って祈りを捧げ、上演された演劇を味わいながら夜を過ごすというものだったそうです。
イエズス会の布教方法も巧みなものでした。宣教師たちは、まず大名を入信させてから次に家来を入信させるという方法を採っています。
戦国時代、こうしてキリスト教徒はどんどん増えていきます。しかし南蛮貿易を行っていく中で、奴隷貿易やキリシタン大名による日本征服の企みなどが噂されるようになり、豊臣秀吉は「バテレン追放令」を発令。宣教師たちも国外追放になりました。
■キリスト教禁止と明治以降の「復活」
その後はご存じの通りで、キリシタンたちは「隠れキリシタン」と呼ばれます。キリシタン大名の中には黒田官兵衛の名もありましたが、彼は追放令にあわせて臨済宗に帰依し、後に如水と呼ばれています。
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江戸時代になると1612年に「禁教令」が発令され、1873年に解除されるまでクリスマス行事は完全に姿を消しました。それでも、隠れキリシタンたちはクリスマス行事を続けていました。キリスト教にとってこの行事は特に重要なものでしたので、呼び名を変えてひっそりと行っていたそうです。
再びクリスマス行事が日本国内で広まっていったのは、明治時代のことです。クリスマスのことを報道した最も古い新聞記事は1879(明治12)年の12月4日のもので、朝日新聞で「25日は耶蘇(やそ)の大祭日なので信者を川口天主堂に集めて行事をする」と紹介しています。
そして1892(明治25)年、東京の菓子店壺屋が「クリスマスお菓子」と銘打ってボンボン、フロンケーキなどの広告をやはり当時の朝日新聞に掲載。これが「クリスマス」という言葉の初出だそうです。
こうして、クリスマスというものが改めて一般庶民の間にも広まっていく大きなきっかけとなったのが、日露戦争の最中だった1904年です。銀座「明治屋」の店頭にクリスマスツリーなどの装飾物が展示されて大きな話題になったのでした。

現在の明治屋本社、明治屋京橋ビル(東京都中央区の有形文化財)(wikipediaより)
大正時代になると、クリスマスの飾りつけやプレゼントをすることが年末行事として根付いていきました。1915(大正4)年には「お歳暮はもうありきたり、クリスマスプレゼントの方が新しい」とまで新聞で書かれたことも。
日本人にとっては言うまでもなく「異国のお祭り」であるはずのクリスマス行事も、昔からの浅からぬ縁があるんですね。
参考資料
・ゆるりと楽しく戦国時代
・朝日新聞 明治・大正データベース
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan