■「管領(かんれい)」として頭角を現した細川

皆さんは、山科けいすけの作品『SENGOKU』はご存じでしょうか。戦国時代の武将たちが大活躍(?)する四コマ漫画で、私は「戦国時代の細川氏」と言えば、あの漫画に登場していた細川藤孝を思い出します。


今回はその細川の血筋について書いてみようと思います。そのためにはまず、足利尊氏が設けた「管領」という役職について説明する必要があります。

室町幕府が成立したばかりの頃は、まだ南北朝の争いが続いていました。その支配力も不安定で、トップたる足利尊氏も、その影響力を保つためには地域の有力な氏族と連携する必要がありました。

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絹本著色伝足利尊氏像(浄土寺蔵・Wikipediaより)

そもそも京都に幕府を開いたのも、自分自身が将軍であるという根拠づけのために天皇を奉じることが不可欠だったからです。これに加えて、有力氏族を足利市の味方につけて政権運営を安定させるためには、彼らに官位や役職を与えて懐柔しなければなりません。


それらの役職の中でも、有名なのが「管領(かんれい)」です。これは将軍の意向をそのときどきに伝達しつつ、時には軍事力でもって幕府の支配を安定させるための重要ポジションでした。

さてこの「管領」は、足利氏の一門である斯波・畠山・細川の三つの有力氏族が交代で務めることになりました。よってこの三家を「三管領」と呼ぶこともあります。

最後は子孫が大出世!室町幕府の基礎を築いた細川家の命脈


『前賢故実』より細川頼之(wikipediaより)

細川氏は室町幕府の基礎を築くことになる一族です。室町幕府に忠誠を誓った和氏・頼春兄弟が有名ですが、このうち頼春の子にあたる頼之が、のちに三代将軍義満を補佐したことで幕府の重鎮としての地位を固めました。


■家督争いで衰退、しかし……!

頼之には子供がいなかったため、頼之の弟である頼元が家を継ぎ、官位として「右京大夫」を授けられています。

これ以降、細川家の嫡流は「京兆家(けいちょうけ)」と呼ばれるようになりました。

その後、最盛期には畿内や四国で八か所の守護を兼ねるなど、細川氏は権勢を誇ります。さらに、細川勝元と山名宗全の権力争いが発端となった「応仁の乱」以降は、幕府そのものを支配することになります。

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細川京兆家11代当主・細川勝元。応仁の乱の東軍総大将でもあった(Wikipediaより)

この頃になると、実質的には「細川政権」です。
細川晴元、細川高国をはじめとする細川氏の人間が管領のポジションを独占し、時の将軍までも自分の都合ですげ替えるなど、やりたい放題です。

こうなってくると幕府の長たる将軍も傀儡です。しかしそれも長くは続かず、その後は家督相続争いをきっかけに、家臣である三好氏から当主を立てられて「下剋上」を起こされてしまいます。

そういえば、応仁の乱が起きた原因も家督争いです。この時代、権力者たちが家督争いで揉め事を起こしたり対立したりして、全体的な権勢の衰退につながっていくというのは一つの典型的なパターンだったのかも知れませんね。

こうしてその後は衰退の一途をたどった細川氏ですが、それでもしぶとく命脈を保ち続けます。


まずは本流である細川昭元が、かの織田信長の姉婿となっています。また、細川藤孝をルーツとする分家も豊臣秀吉に気に入られていますし、さらに細川忠興は徳川家康とのつながりで肥後一国の大名になっています。

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明治時代に細川家の本邸があった肥後細川庭園(旧・新江戸川公園)

特に、肥後の細川氏は明治維新までその権威を保っており、末裔である細川護熙氏は総理大臣にまで登り詰めました。

この細川内閣は、政治史の中で見れば正直あまりパッとしない印象ではあります。しかしこうして歴史を振り返ってみると、何かの拍子にいつ権力の中枢に躍り出てもおかしくないような「血」がもともとあったんだなと考えさせられます。

参考資料
・ジャンクワードドットコム

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