「え、町田市って神奈川県じゃないの?」

本気か冗談か、以前町田市に住んでいた時、ちょくちょくそんな事を言われました。

確かに、町田市は東京都と神奈川県の境界で、かつ神奈川県に食い込み、東西を挟まれているため、ちょっと移動すればすぐ神奈川県に入ることから、つい混同されがちです。


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神奈川県に食い込んだ形の東京都町田市。

ウソかマコトか、試しに「神奈川県町田市~」と書いて送ったところ、ちゃんと?郵便物が届いたとか。そのくらい間違われやすいことを、郵便当局も諦めているのでしょう。

しかし、歴史を振り返れば町田市が神奈川県だったこともあり、あながち間違いでもありません。

そこで今回は、明治時代の廃藩置県から現代に至るまで神奈川県の変遷について紹介。すごく広くて、ちょっとびっくりしますよ。

■最初は4つの県だった!神奈川県の移り変わり

時は明治4年(1871年)7月、日本政府はそれまでの藩を廃して府と県を設置する廃藩置県を実施しました。

この時、現在の神奈川県域には小田原県(西部)、荻野山中県(北西部)、神奈川県(東部)、六浦県(横浜市金沢区など)が置かれましたが、同年9月に荻野山中県は小田原県に、六浦県は神奈川県に組み込まれます。

目まぐるしい!神奈川県が廃藩置県から現代の形になるまでの歴史


明治4年(1871年)9月

鎌倉市より東(都筑郡、橘樹郡、久良岐郡、鎌倉郡、三浦郡)が神奈川県、それより西(高座郡、津久井郡、愛甲郡、大住郡、淘綾郡、足柄上郡、足柄下郡)が小田原県、こうして見ると、小田原県の方が優勢?な感じですね。

やがて同年11月には小田原県が南西の韮山県(伊豆半島)と合併して足柄県となり、神奈川県は北多摩・南多摩・西多摩のいわゆる三多摩を併合しました。

目まぐるしい!神奈川県が廃藩置県から現代の形になるまでの歴史


明治4年(1871年)11月

これは現代で言うところの東京都23区を除く全域で、この時に町田市は神奈川県となっています。

このまましばらく時は流れ、明治9年(1876年)4月に足柄県は静岡県と神奈川県に分割され、旧相模国の部分が神奈川県に組み込まれます。
一方、三多摩についてはそのまま維持し続けたため、この十数年が神奈川県の最大期となりました。

目まぐるしい!神奈川県が廃藩置県から現代の形になるまでの歴史


「神奈川縣管下之図」より、三多摩地域も含めた神奈川県。とても広いですね。

しかし広いのは結構ですが、南端の三浦半島から北端の奥多摩町まで同じ県ですよ、と言われても、なかなか同郷意識は育みにくかったことでしょう。

その後、三多摩地域が神奈川県から東京府に編入されたのは明治26年(1893年)4月、廃藩置県から20余年をもって神奈川県は現代の姿を現したのです。

■終わりに

時代の変わり目とは言え、数カ月から数年で「あなたの居住地域は何県になりましたよ、何県に変わりましたよ」と言われて、現地住民はさぞや混乱したことでしょう。

目まぐるしい!神奈川県が廃藩置県から現代の形になるまでの歴史


現代の神奈川県

今後、神奈川県の境界が変わること(必要性)はあまりないように感じますが、いつかまた町田市が神奈川県になったり、あるいはその逆(県境地域が東京や静岡・山梨県へ編入されること)があるかも知れませんね。

※参考文献:

  • 田口学ら編『神奈川のトリセツ 地図で読み解く初耳秘話』旺文社、2021年3月

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