いつの時代も女性は強いもの……確かにそうなのですが、昔の話となると、なかなか女性の活躍が書物に残っていないのもまた事実。

そんななか、戦国時代に、あの豊臣秀吉をも苦しめた最強の女性がいました。


その名も、別所波(べっしょ・なみ)。今回の記事では、そんな彼女について詳しくご紹介したいと思います。

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■別所波(べっしょ・なみ)とは?

別所吉親(別所長治の叔父)の妻であった別所波は、畠山昭高(はたけやま あきたか)の娘として生まれました。残念ながら生まれた年ははっきりと明らかになっていません。

畠山昭高は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物で、河内国半国及び紀伊国守護であったことがわかっていますが、別所氏との関係ははっきりとわかっていません。

また、波が別所吉親と結婚した時期なども定かにはなっておらず、詳しい人物像がわかっていない女性です。

■別所波が生きた当時の状況

時は、織田信長が天下統一を目指そうとするまさにその途中。中国地方を攻める際に、臣下の秀吉に攻略を命じます。

3人の子どもを刺し自害。あの豊臣秀吉をも苦しめた戦国最強の女性・別所波の生涯


豊臣秀吉肖像

そんな秀吉に従い力を尽くしたのが、三木城(現在の兵庫県三木市)の城主であった別所長治でした。しかし、別所長治は翌年、中国地方の覇者である毛利氏に寝返ります。

秀吉と長治の対立構造がはっきりすると、三木合戦が始まりました。

■別所波が活躍した三木合戦

当時の三木城の城主は別所長治でしたが、若かった彼をサポートしたのが叔父である別所吉親でした。
そして、その戦いには妻の別所波も参加したそうです。

3人の子どもを刺し自害。あの豊臣秀吉をも苦しめた戦国最強の女性・別所波の生涯


この戦いのなかで秀吉は竹中半兵衛を病で失うなど、痛手を負っていました。それに加えて、別所氏側は奇襲をしかけます。波は、夜襲の際に次々と敵兵を斬っていったとか。秀吉は、この夜襲がきっかけで一度姫路に撤退しています。

■波の最期

善戦した別所氏ですが、そう簡単に終わらないのが秀吉。彼は再び三木城へ向かい、今度は兵糧攻めに出ます。

別所氏の情勢は急激に悪化していきました。波は敵に矢を放ち、馬に乗って城門の外へ斬りこんでいきます。しかし、秀吉は自軍に向かって「女一人と戦うなんて大人げない」と制止します。

波は攻撃を逃れますが、天正8年(1580年)1月に別所氏は降伏します。その際、波は3人の子どもを刺したあと、自害したと言われています。
生年不詳ではありますが、自害した際は20代後半・28歳だったと言われています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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