さっそく1枚いただいて来ましたが、そのデザインは戦国時代に大庭城を治めていた扇谷上杉氏(おうぎがやつ うえすぎ)氏の家紋である「竹に向かい雀」。
大庭城の御城印を入手。
大庭と言えば、源頼朝(みなもとの よりとも)公の旗揚げに立ちはだかった序盤の中ボス・大庭景親(おおば かげちか)を連想しますが、源平合戦のころは武士の間に家紋文化が普及していない(※)ため、御城印に適したマークがなかったのでしょう。
(※)源氏方は白旗、平家方は赤旗を掲げれば敵味方の識別ができたため、平家一門が滅亡した後に家紋が使われ始めたと言われています。
さて、今回は大庭景親の館があったとも伝えられる大庭城の歴史を紹介。相模国(現:神奈川県の大部分)のほぼ中央に位置するこの城は、どのような運命をたどったのでしょうか。
■大庭景親の館跡だった?
大庭城の起源については諸説ありますが、室町時代後期から戦国時代初期にかけて扇谷上杉氏が築城したとする説が有力なようです。
享徳元年(1452年)に扇谷上杉氏が大庭御厨(おおばのみくりや)を領有しているため、この辺りの時期に築城したか、あるいは既存の砦(※)を本格的に改修したのでしょう。
(※)大庭景親の父・大庭景宗(かげむね)が築城したとの説もあるようです。
御厨とは伊勢の神宮(いわゆる伊勢神宮)に寄進する供物を供給するための領地で、その代わりに国衙への年貢を免除される特権が得られました。

後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景正(画像:Wikipedia)
大庭御厨は大庭景親らの祖先・鎌倉権五郎景正(かまくらの ごんごろうかげまさ)が開拓、以来この一帯は鎌倉一族が治めています。
「それじゃあ、大庭景親の館は?」と言うと、『玉隠和尚語録(ぎょくいんおしょうごろく)』によれば大庭城から少し南の位置に建っていたことが言及されており、「大庭城≒大庭景親の館跡」とする説(※)は江戸時代の創作なのだそうです。
(※)大庭景親の館跡に目をつけた築城の名手・太田道灌(おおた どうかん)が本格的に改修。
ただし、中世の武士はいつも城にいた訳ではなく、平時は利便性の高い館で暮らし、戦闘時は守りやすい城砦に立て籠もる者もいましたから、大庭景親が館と城の双方を所有していた可能性も否定できません。

「そなたも1枚、購入せねば!」販促にいそしむ上杉朝昌。
そんな大庭城の城主として名前が残っているのは上杉朝昌(うえすぎ ともまさ)、一門の有力者で長享2年(1488年)に大庭城へ移って来た記録があります。
しかし永正9年(1512年)に西部から勢力を伸ばしてきた伊勢宗瑞(いせ そうずい。北条早雲)が大庭城を攻略(合戦の痕跡がないことから、無血開城したのかも知れません)。
城主の座を継いでいた子の上杉朝良(ともよし)は城を追われ、翌年鎌倉郡に玉縄城(たまなわじょう。現:鎌倉市)が築かれると存在価値も薄まり、やがて廃城とされたのでした。
■終わりに

大庭氏の家紋と伝わる「三つ大文字」バージョンも作ってほしいところ。
現在、城跡は公園(大庭城址公園)として整備され、戦国時代の堀や土塁など遺構のほか、一帯には城山や駒寄、二番構など大庭城に由来する地名が伝わっています。
藤沢市街から少し離れた、のどかな郊外に広がる大庭城址公園。もし訪れることがあれば、かつてこの地を治めた大庭景親や上杉朝昌らの雄志に思いを馳せるのも一興でしょう。
※参考文献:
- 黒田基樹『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院、2004年7月
- 網野善彦ら編『講座 日本荘園史5 東北・関東・東海地方の荘園』吉川弘文館、1990年4月
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