戦国武将で、悲惨な死・非業の死・可哀想な死を遂げた人は数多くいます。しかし、純粋な「不運」で一族郎党が全滅して、しかも未だにどこに眠っているのか分からないという、こんなケースはちょっと他にないでしょう。
内ヶ島氏理(うちがしま・うじまさ、或いはうじとし)は、世界遺産としても有名な飛騨国(岐阜県北部)白川郷の帰雲城(きうんじょう、或いはかえりくもじょう)を拠点としていた戦国武将です。
冬の白川郷
当時の白川郷は「陸の孤島」とも言うべき山深い土地で、他国の侵略を受けることなく、内ケ島氏が代々統治してきました。
しかし、氏理の代になると天正4(1576)年~天正6(1578)年にかけて立て続けに侵略の手が伸びてきます。飛騨統一をもくろむ姉小路頼綱(あねがこうじ・よりつな)や、中にはあの「軍神」上杉謙信もいました。
ところが、さすがは陸の孤島。侵攻していった武将たちも過酷な行軍で疲労困憊、戦どころではなかったようで、いずれも撃退されています。
しかし、織田信長が飛騨に迫ってきたとなれば、さすがの氏理も敵いません。信長への臣従を決意し、織田方に加わると、謙信の後を継いだ上杉景勝との戦いに参加します。
ところがこの後、タイミングよく本能寺の変が起き停戦となりました。それで氏理は帰雲城へ帰還します。
■時代に翻弄されるも領地を死守
信長亡き後は、その家臣だった越中国(富山県)の佐々成政(さっさ・なりまさ)に従います。
しかし、この成政は柴田勝家の与力だったため、勝家が賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れて滅亡すると、秀吉は成政のところにも攻め込んで来ました。
そこで氏理は、自ら兵を率いて富山へ向かったのですが、成政はさっさと出家して秀吉に降伏します。それにならって、氏理も戦うことなく降伏しました。

佐々成政肖像(富山市郷土博物館蔵・Wikipediaより)
ところが折悪しく、秀吉は同じタイミングで、部下の金森長近(かなもり・ながちか)に姉小路氏討伐と飛騨平定を命じていたのです。長近は姉小路氏を制圧したのち、飛騨の内ヶ島領にも攻め込んだのでした。
この時、氏理はまだ城に戻っておらず、残っていた家臣はあっさり長近に城を明け渡してしまいます。
やがて帰雲城に戻ってきた氏理は、城が明け渡されていることを知って愕然としましたが、とりあえず身を守らねばなりません。長近を通して秀吉に恭順を申し出ます。
こう言ってはなんですが、内ヶ島氏自体は大した勢力ではなかったので、秀吉もこれを受け入れました。だいぶ時代に翻弄された感はありますが、とりあえず氏理は内ヶ島氏の名跡と白川郷の領地を保証されたのです。
ところがこの後、信じられない不運が氏理に襲いかかります。
■誰も予想しなかった最期
11月29日のことでした。
それは、後に「天正地震」と呼ばれることになる大地震でした。被害状況から、後にこの地震の規模はマグニチュード7.9あるいは8.0~8.1だったと推定されています。とんでもない大地震でした。

帰雲城が建っていた帰雲山は大規模な山崩れを起こし、城は崩壊、城下町も埋まり、崩れた土砂でせき止められた川が氾濫を起こし、全てが壊滅します。
夜が明けて辺りが明るくなる頃には、城も町も全てがなくなっていたのです。直後に帰還した人ですら、どこに城があったのか分からないという有様でした。
こうして、当時城にいた氏理をはじめ、内ヶ島氏も一族郎党すべてが一瞬で土砂の底へと消えてしまったのです。戦乱の世をうまくかいくぐり、城や領地をせっかく守り抜いたというのに、これは実に不運なことでした。

「帰雲城趾」の石碑。背後の地滑り痕が天正地震による崩壊地(Wikipediaより)
現在も帰雲城の場所は特定されていません。
内ヶ島一族についてはただ一人、氏理の弟である経聞坊(きょうもんぼう)という人が、別の場所の寺にいて難を逃れています。彼は「経聞坊文書」という書物に、この地震のことを書き残しました。
参考資料
・歴史雑談録「冬の白川郷に散る… 内ヶ島氏理に学ぶ前代未聞の滅び方。」
・岐阜県災害アーカイブ「 天正地震(天正13年)」
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