肥後国(熊本県)の阿蘇神社は日本で最も古い神社の一つで、現代にいたるまで「阿蘇一族」が代々の神官職を務めてきました。
阿蘇神社
そんな阿蘇家ですが、ある時期だけ断絶し、神社存続の危機に陥ったことがあります。
今回はそんな阿蘇一族の危機と、その再興の経緯について辿ってみたいと思います。
戦国時代になると、阿蘇神社も戦国大名化していきます。そして大宮司が阿蘇惟将(あそ・これまさ)だった頃、その勢力は拡大していました。家臣の甲斐宗運(かい・なおちか)の活躍によるところが大きかったといいます。
宗運は僧籍でありながら、指揮した戦では無敗を誇るという九州有数の軍師でもありました。主家のためなら自分の一族すら誅殺する冷酷な人物でもあり、4人いた宗運の子のうち親英を除く3人が殺害されたほどです。
こうした中、1584年には阿蘇惟将が死去します。男子がいなかったため、弟の惟種(これたね)が家督を継ぎましたが、惟種もその後わずか1か月で病死。
そこで、惟種の息子の惟光(これみつ)がわずか2歳で家督を継ぐことになったのですが、その翌年には甲斐宗運も没してしまいます。

甲斐宗運(Wikipediaより)
阿蘇家は正念場で大黒柱と言える存在たちが相次いで亡くなり、一門衆も家臣も失って深刻な人材不足に陥りました。家臣については宗運があまりに優秀すぎて強権化しすぎたため、次の世代が育っていなかったのです。
一応、残っていた宗運の息子・親英が後を継いでいましたが、彼の力では、当時強大化していた島津氏の侵攻を止めることはできませんでした。直接対決に挑みましたが敗戦し、島津氏に連行されてしまいます。
もはや、阿蘇氏には島津へ臣従する道しか残されていませんでした。
■滅亡、斬首、そして…
ところが、折しも本州から秀吉の九州平定軍が襲来し、島津家は降伏します。これとあわせて阿蘇氏も島津傘下の家だとみなされて改易されてしまいました。ここで、戦国大名としての阿蘇家は滅亡したことになります。
こうして中央の秀吉にも目を付けられ、強い家臣団の後ろ盾もない中で、文禄元年(1593年)に大隅で「梅北一揆」が発生しました。
これは島津義弘の家臣である梅北国兼が、文禄の役への出兵のため肥後を留守にしていた加藤清正の背後をつき、肥後佐敷城を占拠したものです。
しかし、清正もこうした事態は想定の範囲内で、約2週間でこれを鎮圧します。

加藤清正(Wikipediaより)
この一揆の結果、島津家の文禄の役への出兵は大きく遅れることになりました。また秀吉にも目をつけられ、徹底した検地と監視が行われるようになります。
また、一揆を起こした義弘の弟である島津歳久が、一揆の首謀者だとして自害に追い込まれました。
そしてこのとばっちりを食ったのが、当時12歳になっていた惟光です。彼は一揆が肥後で起きた事件であること、改易による秀吉政権への恨みがあること、この前まで島津家に従属していたことなどを理由に、一揆への扇動が疑われたのです。
梅北一揆から2か月後、惟光は肥後の地で斬首されました。わずか12歳という若さでした。
惟光の最期を知った加藤清正は、秀吉の死後、関ヶ原の戦いの後で弟の阿蘇惟善(あそ・これよし)を宮司職に復帰させます。こうして阿蘇神社は復興し、その後も1,800石の宮司として存続しています。明治時代には、当主が男爵位を得て華族に列せられたのでした。
こうした流れを見ていくと、阿蘇惟光という少年は戦国武将としての阿蘇一族の滅亡の象徴であると同時に、その後の復興のための礎(いしずえ)でもあったかのようですね。
阿蘇神社
- 参拝時間: 6:00~18:00
- 住所: 〒869-2612 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
- アクセス: 電車-JR豊肥本線 宮地駅から徒歩15分、バス-九州産交バス 阿蘇駅前下車、車-熊本インターから車で1時間半
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