主人公・北条義時(ほうじょう よしとき)を演じる小栗旬さんをはじめ、彼を取り巻く多彩なキャラクターの活躍が楽しみです。
今回は義時の兄として活躍する北条宗時(ほうじょう むねとき)を紹介。片岡愛之助さんの熱演に、今から期待が寄せられています。
■挙兵以前はほとんど謎
北条宗時は北条四郎時政(しろう ときまさ)の嫡男として誕生、母は伊東祐親(いとう すけちか)の娘ですが、その実名は不詳です。
通称は三郎、同母弟妹に義時(小四郎)、阿波局(あわのつぼね。実名不詳、大河ドラマでは実衣)がおり、北条政子(まさこ)や北条時連(ときつら。挙兵時点ではまだ幼児)とは腹違いとなります。
※阿波局について:
北条義時の妹、そして妻となる”二人の阿波局”の存在ー大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
治承4年(1180年)8月、伊豆国へ流罪となっていた源頼朝(みなもとの よりとも)公の挙兵に付き従う以前のことはほとんど分かっておらず、挙兵以前の行動や言動については大河ドラマの創作です。
山木判官襲撃を指揮する頼朝公。鶴岡八幡宮蔵「頼朝一代記絵巻」より
とは言え、『源平盛衰記』によると8月17日の山木兼隆(やまき かねたか)襲撃に際しては先導役を務めていることから、頼朝公の挙兵に対しては積極派であったことが推測されます。
後に鎌倉幕府の公式記録となる『吾妻鏡』では、生前の宗時が登場するのは8月20日(三浦の援軍を待つ場面)と8月24日(石橋山の合戦に敗れて逃亡中、最期を遂げる)の2カ所のみ。
大庭景親(おおば かげちか)の大軍に蹴散らされ、再起を図る父・時政と弟・義時は武田信義(たけだ のぶよし)の加勢を頼むべく甲斐国へ向かいますが、宗時は独り別行動をとりました。
単にはぐれてしまった(もしくは逃げ帰ろうとした)のか、それとも打ち合わせた上で地元の残存勢力を掻き集めようとしたのかは分かりませんが、その道中に祖父・伊東祐親の軍勢に包囲され、討ち取られてしまいました。

敗走し、木の洞へ逃げ込む頼朝公。歌川国芳「勇魁三十六合戦」より
同三郎は、土肥の山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河の辺に於いて、祐親法師が軍兵に囲まれ、小平井名主紀六久重の為射取られをはんぬ。伊東祐親は頼朝公によって孕まされた娘・八重(やえ)姫の子である千鶴丸(せんつるまる)を殺さざるを得ず、また孫である宗時を討たねばならず……いくら武士の習いとは言うものの、祖父として実に忍びなかったことでしょう。
※『吾妻鏡』治承4年8月24日条より
【意訳】北条三郎(宗時)は潜伏していた土肥の山から桑原方面へ下山、平井郷を抜けようとしたところ、早河(早川)のほとりで伊東祐親の軍勢に包囲され、小平井の名主である紀六久重(きの ろくひさしげ)によって弓で射殺されてしまった。
※八重姫の悲劇について:
新垣結衣が初出演!大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で演じる北条義時の初恋相手?八重姫の悲劇
父や義時らと一緒に甲斐国へ向かっていれば、後にもっと活躍できたでしょうに、残念ですね。
■エピローグ
ここで宗時の出番はおしまいかと思いきや、建仁2年(1202年)6月に時政が夢で宗時の菩提を弔うようお告げを授かり、伊豆国へ下向しています(大河ドラマではたぶん割愛されてしまうでしょうが……)。
余談ながら、信州安曇郡には「実は宗時(若王丸)は死んでおらず、右腕を斬り落とされたもののどうにか生き延び、現地へ移り住んで生涯をまっとうした」との伝承があり、その隠居地は現代でも北条屋敷(旧:北条村、現:安曇野市)という地名と共に、宗時を祀る若宮社が鎮座しているそうです。
(ただし、この伝承では宗時を挙兵当時16歳としており、それだと義時よりも年下になってしまいます。あるいは26歳だとすれば辻褄は合いますが、果たして?)

北条宗時の墓。Wikipediaより(撮影:C2revenge氏)
宗時の墓は静岡県函南町にあり、頼朝公の先駆けとして大義のために尊い命を奉じた遺徳を伝えています。
※参考文献:
- 石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』中公文庫、2004年11月
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年10月
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 20 長野県』角川書店、1990年7月
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