江戸時代後期から幕末の動乱期にかけては、色々な集団や人物が登場、活躍し、世の中を動かしていきましたが、なかでも薩摩藩はその存在無くしてこの時代を語れないのではないでしょうか。

異国へと目を向けた島津斉彬や彼に憧れた西郷隆盛・大久保利通など、有名人を挙げればきりがありません。
しかし、そんな薩摩藩からは、鉄砲玉のような男も出ました。

その名も、益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)。

西郷や大久保と比べるとあまり知られていない人物ですが、今回の記事では、そんな彼について詳しくご紹介したいと思います。

■益満休之助(ますみつ きゅうのすけ)とは?

益満休之助は、江戸時代・幕末に生きた薩摩藩士です。天保12年(1841年) に益満行充の次男として生まれました。子どものころから活発で暴れん坊気質でしたが、頭の回転も速かったようです。

薩摩藩の尊王攘夷派として、1860年には、清河八郎や山岡鉄舟を中心に結成された「虎尾(こび)の会」と呼ばれる尊王攘夷党に加わります。

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清河八郎、山岡鉄舟

■益満が関わった様々な出来事

益満は、1860年に伊牟田尚平が首謀したアメリカ公使館の通弁官・ヒュースケン(オランダ人)の暗殺にも加わっています。

さらに、1867年の末には、西郷隆盛からの密命で、伊牟田尚平と一緒に江戸へ行き、薩摩藩江戸藩邸を本拠地として約500人の浪人を集めて江戸市内を混乱に陥れました。

放火や強盗などを行い、江戸幕府に対して挑発行為を行いました。これは、人々の不満をあおることで新政府実現への足掛かりとすることが目的でした。

そして、幕府軍が江戸薩摩藩邸を襲撃すると、会津藩らを刺激し、これがきっかけとなりあの「鳥羽伏見の戦い」がおこりました。


尊王攘夷を掲げ江戸幕府に挑発行為!幕末の知られざる薩摩藩士「益満休之助」の生涯


鳥羽・伏見の戦い

益満は幕府軍にとらえられましたが、勝海舟のもとに幽閉されます。勝は幕府の使者として山岡鉄舟を駿府にいる西郷に会わせるため、その道案内に益満を同行させました。

■益満の死

山岡と西郷の会談は成功に終わりましたが、益満は同年の上野戦争において、流れ弾に当たり、28歳という年齢でこの世を去りました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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