この記事では、そんな「徳川埋蔵金」を隠し、明治政府に消されたとされている男「小栗忠順(おぐりただまさ)」について紹介したいと思います。
小栗忠順肖像
■徳川埋蔵金とは
1867年、大政奉還によって260年以上続いた江戸幕府がついに終わりを迎えます。世は、新時代の幕開けにお祭り状態。
そんな大政奉還の裏で財政難に喘いでいた明治政府は、幕府御用金を血眼で探していました。幕府御用金とは、江戸時代に幕府が財政上の不足を補うため、町人や農民に納めるよう命じた金銀のことです。
しかし、江戸城内のどこを探しても幕府御用金は見つからず、金蔵も空っぽ。そこで、明治政府は「幕府側の人間が幕府再興を目論み、軍資金をどこかに埋蔵したのではないか」と、捜査を開始します。
勘定奉行 明治政府は、まず江戸幕府の財政を管理・監視いていた勘定奉行に目をつけ、徳川埋蔵金の行方を捜査することに。その捜査の手は、幕府内で最も優秀と言われていた勘定奉行「小栗忠順」のもとまで及びます。
もとより、小栗が幕府の財政責任者であったこともあり、「小栗が幕府の金を持って逃げたのではないか」という噂も飛び交っていました。そのため不幸にも、幕府御用金隠しの容疑者となってしまった「小栗忠順」、一体どんな人物だったのでしょうか。
■小栗忠順
勘定奉行として最も優秀だといわれた小栗忠順ですが、幼い頃は頭が悪く、周囲から敬遠されていました。
小栗はのちに、西洋式火薬工場や横須賀製鉄所の建設、そのほか兵庫商社を設立。現代社会では当たり前になっている社内教育、雇用規則、残業手当、簿記、人事労務管理などを取り入れ、近代化への礎を作りました。
こういった活躍から幕府の財政責任者に任命され、勘定奉行となったのです。
■危険視された天才
小栗は大政奉還後、新政府軍(明治政府)と旧幕府軍(江戸幕府)との間で起こった鳥羽伏見の戦いで、最後まで徹底抗戦の構えをとっています。このとき小栗は、「相手の後続を砲撃で足止めし、箱根で孤立した相手を殲滅する」という作戦を立てていました。
結局、実行されることはありませんでしたが、もしこの作戦が実行されていれば新政府軍は殲滅され、旧幕府軍が巻き返した可能性があります。
戦いのあとで忠順の作戦を知った明治政府側は、「もしその作戦が実行されていれば、我々は全滅していた」とも語っています。
■斬首された小栗忠順
鳥羽伏見の戦いのあと、小栗は上野の群馬郡権田村へと移り住み隠居生活を送っていた小栗でしたが、幕府御用金の捜査にやってきた明治政府に捕らえられてしまいます。
そしてその2日後には、ろくな取り調べもされないまま斬首されてしまいました。
斬首された理由については明らかにされていませんが、ひとつの説として「江戸幕府の再興を目論んでいる可能性や、鳥羽伏見の戦いでの戦術ぶりが危険視された」と言う説があります。
また、幕府御用金について一切情報を漏らさなかったといいますから、そういったことが癇に障ったのかもしれません。
■徳川埋蔵金の行方
結局、徳川埋蔵金の行方は不明のままです。しかし、江戸幕府の財政責任者である小栗忠順は、本当に何も知らなかったのでしょうか。
もしかしたら、小栗忠順の歴史や資料を調べていけば、徳川埋蔵金について何らかのヒントを得られるかもしれませんね。
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