■種子島で製造された「火縄銃」

「鉄砲の伝来」というと、小学校時代の教科書を思い出します。そこにはイメージイラストが載っていて、ヨーロッパ人と日本人が砂浜の砂に文字や絵を描いて「筆談」をしている場面でした。


大人になってから改めて思います、あれはあくまでも小学校時代のイメージであって、鉄砲が日本に伝わった実際の経緯はどんな感じだったんだろう? と。本稿ではそれを辿ってみたいと思います。

まず、鉄砲の伝来と言えば1543(天文12)年、現在の鹿児島県・大隅諸島の一角にあたる種子島に、中国(当時は明)船が漂着し、そこに乗っていたポルトガル人の商人から新型武器の情報がもたらされた、ということになっています。

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種子島・浜田海浜

しかしこれは正確ではないようで、実際にはポルトガル人が乗っていたのは、いわゆる海賊とされる「倭寇」の船だったとか。

キリスト教の布教などの目的でやってきていた宣教師や商人が、倭寇と遭遇したのです。そして倭寇は彼らが持っていた新型武器に目をつけました。彼らは「これは売れる」と判断して日本に紹介した、というのが真相だとも言われています。

さて、もたらされた新型武器の情報に興味を持ったのが、島の領主・種子島時堯(ときたか)でした。彼はさっそく、その武器を2挺購入します。

戦国時代の日本に火縄銃が伝わった経緯とその後の「銃規制」の顛末


種子島時堯(Wikipediaより)

時は戦国時代。おそらく単なる好奇心ではなく、「これは使える」と踏んだのでしょう。彼は鉄砲を分解したり、家臣に火薬調合を学ばせたりするなどして研究を重ねます。
足りないパーツなども、別の外国船に載っていた人から教わるなどしたそうです。

こうして、翌年には日本初とされる国産の鉄砲を完成させました。さらに一年後には数十挺完成させ、量産することが可能となり、「新しい武器が誕生した」という情報が商人を通じて本土に行き渡ることになりました。

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これが「火縄銃」です。その名前の由来はもちろん、火縄を使って発火するからですが、地名を取って「種子島」とか「種子島銃」などとも呼ばれたそうです。

■「鉄砲」そして瞬発式火縄銃へ

それにしても素朴な疑問なのですが、それまで日本に「銃」が存在しなかったのなら、「銃」という言葉はどこからやってきたんでしょうね。

元を辿ると「銃」というのは、金属の筒に火薬と弾を装填する構造そのものを指し示す言葉だそうですが、火縄銃より前にもそういう形態の武器があったのでしょうか?

ちなみに「鉄砲」という言葉は当時の日本に既に存在していたそうです。語源は、有名な元寇の際の「てつはう」で、これは鉄の容器に火薬を詰めて、火を点けて投石機で飛ばすものでした。つまり爆弾ですね。

「砲」という言葉は石を包んで飛ばす投石器など、大きくて重い構造の武器に使われる言葉でした。それが後に「てつはう」に当てはめられるようになったのでしょう。あるいは、あまりにも言葉がぴったりなので、語源も何も最初から「てつほう(鉄砲)」と呼ばれていたんじゃないかという気もしますが……。


室町時代までは、爆竹なども含めて、炎と大きな音を発するものは全てひっくるめて「鉄砲」と表記されていたそうです。

戦国時代の日本に火縄銃が伝わった経緯とその後の「銃規制」の顛末


火縄銃

それはともかく、火縄銃が登場したことで、日本古来の「戦」の形式は大きく変わります。従来のように、兵士が接近戦でお互いの身体を傷つけあうような戦い方が激減したのです。

さて、当時の銃は「瞬発式」と「緩発式(かんぱつしき)」の2種に大別されます。種子島時堯が入手し、研究した火縄銃は瞬発式にあたり、東南アジア製の「マラッカ型」と呼ばれるものでした。日本ではこうして瞬発式が普及していきます。

そして一方の「緩発式」は、主にヨーロッパで製造・使用されていました。なぜ地域によって銃のタイプが異なるのかというと、銃の構造と地形の相性がその理由です。

■日本に適した瞬発式、そして銃規制へ

瞬発式の銃の特徴は、点火してから発砲までの時間が短いことです。その一方で、暴発しやすいというデメリットもありました。

緩発式はその逆で、点火してから発砲まで時間がかかり、だけど安全で操作性も優れていました。

これを踏まえて考えると、ヨーロッパは見晴らしのいい平原が多いため、遠くからでもゆっくり狙えるし弾幕も張りやすいので、発砲までに少し時間がかかっても、安全性の高い緩発式の方が利便性が高いことになります。


しかし日本は平原が少なく、障害物だらけです。よって、敵を見つけたらすぐに撃たなければなりません。だから、暴発の危険があってもできるだけ早く発砲できるものの方が適しているのです。

戦国時代の日本に火縄銃が伝わった経緯とその後の「銃規制」の顛末


最後に、豊臣秀吉が1588(天正16)年から実施した「刀狩」について解説していきます。

「刀狩」の概要についてはほとんどの人が知っていると思います。これも小学校の教科書のイラストのイメージですが、全国規模で農民たちが持っている刀や槍などの武器を取り上げた、というものですね。

しかし、「刀狩」などというくらいですから刃物しか取り上げていないイメージがありますが、実はこの時、鉄砲も対象とされています。いわば、刀狩とは日本初の「銃規制」でもありました。

この、日本の銃規制は江戸時代も受け継がれていきます。遠距離を持ち歩いてはダメ、関東へ持ち込むには老中の許可が必要など、かなり厳格なものでした。

一方、農民にとっては、鹿や猪による畑での獣害を防ぐために銃は不可欠なものでした。そこで、期間を限定して貸し出す「拝借鉄砲」「預鉄砲」「日切鉄炮」「四季打鉄炮」というものもあったそうです。


参考資料

  • 鉄砲の語源と歴史を探ってみる。その名前となったきっかけを見つける。
  • 銃の数え方
  • PRESIDENT Online
  • BUSHOO! JAPAN(武将ジャパン)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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