父親は同じでも、母親が違えばまるでよその子……みんながみんな仲良しではなかったことでしょう。
今回は平安時代、腹違いの兄たちに軽んじられながらも懸命に生きた藤原良仁(ふじわらの よしひと)を紹介。
果たして彼は、どのような生涯をたどったのでしょうか。
■皇太子・道康親王に仕える
藤原良仁は平安時代初期の弘仁10年(819年)、藤原北家の一族・藤原冬嗣(ふゆつぐ)の七男として誕生しました。
その容姿は美しく整い、立ち居振る舞いは風神を思わせる颯爽ぶり。ファッションセンスにもすぐれて鮮やかな装いだったと言います。
また仏教を篤く信仰してためか性格も淡雅にして高潔、幼少期から読書や勉学に励みました。唯一の趣味は乗馬で、スポーツも勉強もできる将来有望な青年でした。
しかし母親の島田村作女(しまだの むらなりのむすめ)は身分が低く、そのため腹違いの兄たちからは軽んじられていたようです。もしかしたら妬まれていたのかも知れません。
文徳天皇御影。法金剛院蔵
そのせいか政界デビューは少し遅めの25歳となった承和10年(843年)、良仁は春宮蔵人(とうぐうのくろうど)として道康親王(みちやすしんのう。後の第55代・文徳天皇)に仕えます。
春宮とは皇太子殿下とその御所を指し、蔵人とはその身辺をお世話する役職で、貴族の子弟たちが出世コースの第一歩として勤めました。
熱心な働きぶりが評価されたのか、その後は主蔵正(しゅぞうのかみ。春宮の倉庫管理責任者)や春宮大進(とうぐうのだいじょう。家政指導役)などを歴任。
承和13年(846年)には従五位下に叙爵され、28歳の若さで内裏への昇殿≒天皇陛下への拝謁が許される殿上人(てんじょうびと)となったのでした。
貴族の官位には正一位から少初位下まで幅広く、形式上こそ貴族ではあるものの、まともに貴族として扱ってもらえるのは五位以上から。
五位は上から正五位上・正五位下・従五位上・従五位下の4ランクに分かれており、良仁は晴れて「貴族」として認められることになります。
兄たちに比べれば遅いし、たとえバカにされたって、自分の努力によって勝ち取った実績。さぞや嬉しかったことでしょう。
■文徳天皇の後ろ盾で、順調に出世
かくして「貴族」の仲間入りを果たしたこの頃、良仁は北家一族の藤原浜主女(はまぬしのむすめ)と結婚。承和14年(847年)には嫡男の藤原有実(ありさね)が誕生しました。
ほか生母&生年不明の藤原恒実(つねさね)や藤原義実(よしさね)もいますが、分け隔てなく愛してあげたのでしょうか。

ますます職務に励む良仁(イメージ)
ますます職務に励んだ良仁は嘉祥2年(849年)に従五位上へ敍爵、春宮の次官である春宮亮(とうぐうのすけ)に昇進。
そして嘉祥3年(850年)、道康親王が皇位を継承されると二階級特進で正五位上に叙爵されました。
また皇太后(天皇陛下の母)となった藤原順子(のぶこ/じゅんし。良仁の異母長姉)に仕える中宮亮(ちゅうぐうのすけ)とその護衛を務める右兵衛権佐(うひょうゑごんのすけ)を兼任します。
仁寿4年(854年)には従四位下へ昇進、その時期に蔵人頭(くろうどのかみ)、右近衛中将(うこのゑのちゅうじょう)はじめ右馬頭(うまのかみ)、木工頭(もくのかみ)、大舎人頭(おおどねりのかみ)、左京大夫(さきょうのたいふ)など要職を歴任。
この頃が良仁にとって人生の絶頂でしたが、やがてその前途に暗雲が立ち込めます。
■兄に逆らった報いで左遷
文徳天皇は若い頃より病弱で、早くから皇位継承者選びが問題となっていました。
文徳天皇は第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を後継者に望んでいましたが、太政大臣の藤原良房(よしふさ。良仁の異母兄)は自分の娘・藤原明子(あきらけいこ/めいし)が産んだ第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう。後の第56台・清和天皇)をゴリ押しします。

惟喬親王。菊池容斎『前賢故実』より
何とか陛下のご希望にそえるようにしたい……良仁は惟喬親王を推すべく働きかけますが、良房は異母弟の願いを一蹴。
それならせめて惟喬親王を惟仁親王の皇太子≒次期皇位継承者に……文徳天皇はそう願いましたが、それでは却って愛する惟喬親王の身を危うくしてしまうでしょう。
結局、皇位は惟仁親王が継ぐことと決定。太政大臣の意向に逆らった良仁は天安元年(857年)、越前権守(えちぜんごんのかみ)として左遷されてしまったのでした。
権守とは正式な国司(越前守)に対して仮≒員数外の国司で、現地に行ってもやることはあまりありません。要するに実質的な追放処分と言えます。
(※名誉職として授けられる場合もありますが、ここでは状況的に左遷≒追放処分と解釈)
京から遠く越前(現:福井県)で陛下の身を案ずる中、天安2年(858年)に文徳天皇が崩御。あまりに急だったため、良房らが暗殺したとも噂されました。

「そろそろ、あやつも反省したじゃろう」良仁を都に戻した藤原良房。菊池容斎『前賢故実』
もう十分に反省したと思ったのか、藤原家当局は良仁を赦して兵部大輔(ひょうぶのだいゆう。軍事長官)の官職を与え、中央政界に復帰させます。
しかし文徳天皇の葬儀や陵墓造営などは任せられず、生前篤く忠義を尽くしていた良仁には辛い仕打ちだったことでしょう。
■エピローグ
その後、良仁は中宮大夫(ちゅうぐうのたいふ)を拝命して国母(天皇陛下の母・皇太后)となった藤原明子に仕えます。
しかし母が亡くなり、それを嘆き悲しむあまり血を吐いて昏倒。それ以来、病床に臥せって貞観2年(860年)に卒去。まだ42歳の若さでした。
人々はこれを「母親に対する孝心ゆえ」と賞賛しましたが、母親としてみればそこまで悲しまず、長生きして欲しかったことでしょう。
ちなみに父・藤原冬嗣は良仁がまだ8歳だった天長3年(826年)に薨去しており、父がもう少し生きていれば、母子の境遇も少しはマシだったかも知れません。

良仁の子供たち(イメージ)
ちなみに父の背中を見て育った藤原有実は精進を重ね、若くして父を越える公卿(上級貴族)に列します(最終的には正三位まで昇進)。
人間は生まれよりも生き方が大事。そして努力によって運をつかめれば誰でも成功できることを、身をもって示したのでした。
※参考文献:
- 佐藤謙三ら訳『読み下し 日本三代実録 上巻』狄光祥出版、2009年10月
- 『新編増補 国史大系第58巻 尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、2007年6月
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