薩摩国守護大名・島津貴久に謁見して布教を許されたザビエルは、長崎の平戸や山口へ赴いてキリスト教を伝道、山口では5ヶ月間で500人もの信者を得ることに成功したと伝えられています。
では、そもそもなぜ、ザビエルは日本にやって来たのでしょう。外国人だったザビエルは、日本語が理解できなかったはず。そのような彼がどうやって日本人にキリスト教を伝えていたのでしょうか。そこには日本人の協力者がありました。
■懺悔を希望する一人の日本人青年・ヤジロウ
1541年、ザビエルはポルトガル国王からの要請を受け、リスボンを出航し、東インドへ向いました。彼の使命は、ポルトガルの植民地であったインドでの普及活動でした。翌年の5月にゴアに到着したザビエルは、インド洋沿岸、セイロン島、マラッカ島などを渡り歩いて伝道に尽力。ところが現地はイスラム教の影響が強く、ザビエルを迫害、キリスト教を受け入れようとはしませんでした。
1547年のある日、満足した成果を得られない状態で虚無感にひたっていたザビエルのもとに、懺悔を希望する一人の日本人青年が訪れました。
彼の名前は「ヤジロウ(アンジロー)」といい、かつて薩摩で商人として暮らしていましたが、仕事情のトラブルで仲間と喧嘩になり、その相手を殺してしまったことを告白。罪の意識に苛まれながらも極刑を恐れ、ポルトガル船に乗ってマラッカに逃亡していたさなかに、ザビエルのことを知り、罪を告白するためにやってきたのだそうです。
ヤジロウにザビエルのことを紹介したのは、ポルトガル船 船長のジョルジュ・アルヴァレス。
ヤジロウの人柄と賢さに魅せられたザビエルは、翌年、神学を学ばせます。ヤジロウが話す日本の様子に次第に関心を持ったザビエルは、日本での布教を決意。ヤジロウを案内役としてゴアを出航し、薩摩上陸を果たしました。
薩摩では、神学を修めたヤジロウは、日本人クリスチャン第1号として、ザビエルの通訳・案内役をする他、聖書や経典の翻訳にあたるなど、様々な面でザビエルの伝道活動を支えていました。
しかし、山口から堺を経由して京に入ると、町並みは戦乱によって荒廃し、朝廷や将軍の権威はすでに失墜していました。失意のうちに山口へ帰着していたザビエルは、1551年に日本を離れ、インドへ帰着。その翌年、中国での布教を目指しましたが、その途中で病死してしまいました。
一方、ザビエルの布教を支えたヤジロウは、インドへと向わず、十数年後に中国の寧波付近で、海賊に襲われて殺されてしまったとも伝えられていますが、詳細はよくわかっていません。
現在、ヤジロウの出身地である鹿児島県には、彼が身を潜めて宣教を続けていたとする伝承が残されており、ヤジロウの墓と伝わるものも残されています。また、梅北道夫氏によると、鹿児島県甑島のごくわずかな地域で信仰されていたクロ教が、ヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰だとされているようです。
ザビエル自身のキリスト教伝道自体は、見方によっては失敗に終わったかもしれません。
キリスト教世界と日本の橋渡しをしたヤジロウのことは、もっと知られてもよいのかもしれません。
【史 跡】
ヤジロウ」の墓(伝)
鹿児島県日置市伊集院町土橋
アクセス:県道206号沿い
参考
- 梅北 道夫『ザビエルを連れてきた男』(1993 新潮社)
- シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡〈1〉』(1994 東洋文庫)
- やなぎや けいこ『地の果てまで―聖フランシスコ・ザビエルの生涯』(2004 ドン・ポスコ社)
- ルイス・フロイス著 松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史〈6〉ザビエル来日と初期の布教活動―大友宗麟篇(1)』 (2000 中央公論社)
- 浅見 雅一『フランシスコ・ザビエル―東方布教に身をささげた宣教師』(2011 山川出版社)
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