中国大陸の洛陽や長安に倣って街路が縦横まっすぐに巡らされ、美しく整備された様子は「万代(よろずよ)の宮」と謳われるにふさわしい威容を示しました……が。
啼くよウグイス、平安京
この平安京、実は現代伝わっている図面や復元模型どおりには造られていなかったと言います。
一体、どういう事なのでしょうか。
■遷都の当初から廃れがちだった「卑湿の地」
平安京のデザインは『九条家本延喜式附図(左京図、右京図)』等によって現代に伝わっています。
しかしそれはあくまで設計図というか理想図であり、予算などの関係からその通りに完成した訳ではないとのこと。

平安京の復元模型。向かって左側が右京地区。Wikipediaより(撮影:名古屋太郎氏)
特に右京(御所から見て右側=中央を走る朱雀大路より西側)地区については、そのすぐ西側を走っている桂川や紙屋川(天神川)の氾濫水域。
かねて「卑湿の地(弘仁10・819年11月5日、太政官符)」などと呼ばれており、もし実際に都市を造っていたところで、しばしば破壊されてしまったことでしょう。
実際に発掘調査でも右京の朱雀大路より西、二条大路より南(要するに右京地区のほとんど)では路面や側溝が発見されておらず、そこまで整備の手が回らなかった当時の状況が偲ばれます。
そのため右京地域については遷都から間もなく廃れがちに。右京を「長安」左京を「洛陽」とオシャレに呼んでいたため、やがて残る「洛陽」が平安京≒京都の別名となりました。
ちなみに京都へ行くことを上洛(じょうらく)と言うのは、この「洛陽(左京)へ上がる」ことに由来します。
すっかり右京が忘れ去られた一つの証拠として、左京大夫(左京地区の行政長官)である藤原経通(ふじわらの つねみち)は「みさと司の藤原朝臣」と呼ばれていました。
みさと(御郷)とはそのまま故郷の意。平安京には右京と左京があるけれど、左京のみが御郷であり、右京など知らぬという心情が『小右記(藤原実資の日記)』に綴られています。
更に時代が下って治承4年(1180年)、『玉葉(九条兼実の日記)』によるとかの平清盛(たいらの きよもり)が福原への遷都を強行する際、移転の対象を左京の四条大路より北のみに指定。

清盛が「遷都」を命じた地域(朱雀大路より東、四条大路より北)。Wikipediaより(画像:咲宮薫氏)
これは平安京全体のおよそ20%に過ぎず、清盛はそこだけが都と認識していた≒それだけ平安京に象徴される貴族社会が衰退していたことを示しています。
とは言え、右京でも都市整備がまったく行われなかった訳ではなく、広々とした空閑地に中小規模の都市的空間が点在。耕作地とモザイク状に入り組んで独自に発展していました。
あまりよい土地ではないため庶民や下級官人らが住みつき、そこから官庁へ出仕していたと考えられます。現代で言う所のベッドタウンでしょうか。
「お前、今度左京へ引っ越すんだって?いいなぁ」
「あぁ。これでジメジメした土地とはおさらばだぜ」
そんな会話が、庶民たちの間で繰り広げられていたのかも知れませんね。
■終わりに
しかし、こうした事は平安京に限った話ではありません。
例えば藤原京や平城京、長岡京などについても遷都の詔が発せられた=都市整備が完了した訳ではなく、それぞれ完成前に次の都へ移っています。

「え、また遷都だって?せっかく建設中だったのに……」
そもそも考えてみれば、現代の東京都だって「どこまで整備すれば完成か」なんて、誰にも言い切れるものではありません。
都市は人の営みと共に形を変えていくもの。かつて人々が息づいていた平安京がどのような形をしていたのか、その全容解明が俟たれます。
※参考文献:
- 倉本一宏『平安京の下級官人』講談社現代新書、2022年1月
- 山田邦和『京都都市史の研究』吉川弘文館、2009年5月
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