平安時代後期に東北の地で起きた「前九年の役」は、陸奥に勢力を張る安倍氏と源頼朝の祖先源頼義の間で行われた戦乱でした。
【その3】では、貞任・経清軍の前に頼義率いる国府軍が完敗を喫した「黄海(きのみ)の戦い」と、清原氏を味方につけ巻き返しを図る頼義についてご紹介しました。
源頼朝の先祖と死闘を演じた藤原経清(奥州藤原氏祖)の壮絶な生涯【その3】
【その4】では、清原氏を味方につけた頼義率いる国府軍により追い詰められた安倍貞任の滅亡と藤原経清の最期、そして、「前九年の役」の後日談についてお話ししましょう。
■厨川柵に籠城。最後の戦いを挑む
出陣する藤原経清を送り出す妻の有加一乃末陪。[歴史公園えさし藤原の郷](写真:T.TAKANO)
次々に落とされる安倍氏側の城柵 清原氏の参戦により、形勢は一気に逆転しました。源頼義はこの機に乗じて貞任・経清征討へ軍を動かします。
頼義:いよいよ機は熟した。全軍、出陣じゃ!よいか皆の者、こたびこそ貞任と経清の首を挙げるぞ!
1062(康平5)年8月、国府軍は貞任の弟宗任と叔父良照が守る小松柵を攻撃します。熾烈極まる攻城によく耐えた宗任も、ついに支えきれず敗走しました。
しかし、奥六郡深くまで進撃してきた国府軍の兵糧が乏しくなったと判断した貞任は、9月、緒戦の劣勢を覆そうと頼義本陣に奇襲をかけます。
だが、時間が経つにつれ数に勝る国府軍が優勢となり、貞任は退却を命じます。頼義は追撃の手を緩めず、勢いに乗じて、石坂柵・衣川関・藤原業近柵と次々に安倍氏支城を落としていきました。
貞任:このうえは厨川の柵に籠城だ。急ぎ安倍・藤原の一族郎党は厨川に向かへ!
貞任と経清は、安倍一族と藤原一族を集結させ、奥六郡最北の厨川の柵に籠城しました。
厨川の柵跡。小高い丘の上に祈願所の天昌寺が建つ。(写真:T.TAKANO)
源義家の活躍で厨川柵が陥落 厨川の柵は、約800m離れた位置にある嫗戸柵と連携して防御を固める城柵です。要所に高い櫓を設け、周囲に広く深い堀をめぐらし、堀底には多数の白刃を埋め込んで敵の侵入を防ぐという堅城でした。
9月15日、国府軍は厨川の柵を包囲、総攻撃を開始します。激しい矢戦が交わされる中、攻めかかる国府軍に対し、城中から石や熱湯が浴びせられます。一進一退の攻防は翌日も続きますが、17日になり、激しい風が城に向かって吹き始めました。
義家:天は我らに味方したぞ!この機を逃さず、城に火を放て!
源義家の命で放たれた火は烈風にあおがれ、みるみるうちに厨川の柵は猛火に包まれました。国府軍の手に落ちた厨川の柵では、貞任の妻をはじめとする安倍一族の女・子供たちが燃え盛る城中で次々と自尽して果てたのです。
貞任:無念だが、ここにいたっては詮方なし。嫗戸柵に移り、最後の一戦いを行おうぞ!
貞任ら安倍一族の男たちと経清は厨川の柵を捨て、最後の抵抗を行うため、東方の嫗戸柵に移りました。
厨川の柵跡に建つ石碑。(写真:T.TAKANO)
■狙うは頼義の首ただ一つ
源義家を先頭に進撃する国府軍。中央が源頼義。(写真:『前九年合戦絵詞』より)
嫗戸柵に移動した貞任と経清でしたが、厨川の柵を落とし勢いに乗る国府軍の前に、すでに戦いの大勢は決していました。
安倍一族の滅亡は目前に迫り、経清も最期の時を悟りました。もはや彼らが望むべきものは、源頼義の首のみという状況に追い込まれていたのです。
貞任:俺は、生き残った弟たちと頼義の首を狙いに行く。一緒に斬りこもうぞ!
経清:いや、私には別の考えがある。
貞任:そうか相分かった。では、魂魄となって頼義の面前で会おう!
貞任は、弟の宗任・家任をはじめ、郎党たちと馬首を並べると、国府軍の真っただ中に突入していきました。
■藤原経清の壮絶な最期
国府軍に突入する安倍貞任と捕縛される藤原経清。(写真:Wikipedia)
嫗戸柵が落ちたことで、延べ10年にもわたった「前九年の役」は終焉を迎えました。安倍一族の多くは討死にし、生き残った者たちも国府軍によって捕縛され、その中には藤原経清もいました。
経清捕縛の報を受けた頼義は大いに喜び、自ら検分を行うため経清を引き出します。
頼義:お前は源氏累代の家臣でありながら余を裏切った。それにも増して許されないのは、朝廷の御威光を蔑ろにしたことである。お前は、ここにいたっても、まだ白符を使うとほざくのか!
そこに重傷を負い、瀕死の状態の貞任が板戸に乗せられて運ばれてきます。貞任は、頼義の顔を一瞥すると息絶えてしまいました。
「前九年の役」の顛末を記録した『陸奥話記』によると、この後、意気消沈する経清を頼義が鈍刀により、鋸引きという残虐な手で処刑したとされます。
貞任は、薄れゆく意識の中で経清の存在を確認したはずです。その経清が、いま頼義の面前にいる。その意味を悟って逝ったことは間違いないでしょう。
源頼義の激しい叱責に、頭を垂れたまま一言も発しなかった経清ですが、貞任絶命を見届けると爛々と輝く目で頼義を睨みつけ言い放ちました。
経清:貴様ごときが朝廷云々などとほざくのは、おこがましい限りだ。私利私欲のために戦を起こすなど言語道断。その証に、朝廷は兵を出さなかったではないか。貴様こそ、恥を知るがいい。
頼義:なにをほざこうが、お前は朝廷に反した大罪人である。とっとと首を刎ねよ。
頼義の命令で兵たちは、経清の身体を押さえつけさせます。
経清:隙をみて貴様を刺し殺そうと思ったが、ことここに至っては仕方なし。さぁ、早く斬れ!
頼義:お前はこの場に及んでも余の命を狙っていたのか。ええぃ、尋常に死ねると思うな!鋸引きにしてくれる!
頼義は兵に命じ、太刀の刃を何度も石に叩きつけさせました。そして、鋸状にした刀で、苦しみを長引かせながら経清の首を斬り落とさせたのです。
押さえ込まれる藤原経清。(写真:Wikipedia)
■「前九年の役」の後日談
進軍する安倍宗任。「前九年の役」後、九州に配流となった。(写真:『前九年合戦絵詞』より)
源頼義・清原武則と安倍一族のその後 「前九年の役」は、源頼義率いる国府軍の勝利に終わりました。頼義は、藤原経清と安倍貞任らの首を掲げ、都に凱旋します。朝廷は頼義を正四位下伊予守に任じ、その労に応えました。
ただ、やはり朝廷は「前九年の役」を頼義の私戦とみなしていたのでしょうか、頼義麾下の部将たちにはほとんど恩賞を与えませんでした。頼義は私財を投じてこれに当てたとされます。このことが頼義と麾下の部将たちを強く結びつけ、その後の源氏の勢力強化に繋がったと考えられます。
さらに後述する「後三年の役」の際も、朝廷は義家に恩賞を与えず、義家が父同様には配下の部将たちの恩賞を私財でまかないました。頼義の子孫頼朝が挙兵した時、多くの坂東武者が頼朝に味方した礎は、頼義・義家父子の時に築かれたのです。
一方、安倍氏は惣領の貞任が討死したものの、弟の宗任は死罪を逃れ九州に配流となりました。その子孫は脈々と続き、元首相の安倍晋三氏はその末裔とされます。
藤原経清の活躍がもたらしたもの 頼義により悲惨な死を遂げた藤原経清ですが、その存在と活躍は後の日本史に大きな影響を与えました。経清の妻・有加一乃末陪(ありかいちのまえ)は、厨川の柵落城の時、安倍一族と運命を共にせず、経清との子清衡を連れて落ち延びます。
彼女は敵方である清原武則の子武貞と再婚、清衡は武貞の養子となりました。その後、清原氏の内紛に源義家が介入した「後三年の役」が起こると、義家は清衡を援けて戦います。義家は父頼義が憎しみのあまり、鋸引きで斬殺した経清の子に援助を惜しみませんでした。
「後三年の役」の後、清衡は父経清の藤原姓に戻り、奥州藤原氏の初代となります。そして、三代秀衡が源義経を援け、四代泰衡がそれを口実に頼朝に滅ぼされます。藤原氏と源氏は半世紀近くにわたり、因果応報としかいいようのない歴史を繰り広げるのです。
藤原経清は、歴史の教科書にも登場しません。でも、経清が安倍氏に味方して「前九年の役」で活躍しなければ奥州藤原氏は出現せず、義経の活躍や頼朝の鎌倉幕府創設もなかったかもしれないのです。それほど、経清は後世に大きな影響力を与えたのです。
藤原経清の墓と伝承される、奥州市江刺郡に残る五位塚。(写真:T.TAKANO)
今回は4回にわたり藤原経清について述べてきました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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