初代・川越藩主で、老中を務め、「知恵伊豆」の異名で知られる松平信綱(まつだいら・のぶつな)という人物がいます。
歴史の教科書で取り上げられる機会はあまり多くありませんが、実はこの人、江戸時代初期の時代の過渡期・混乱期に江戸幕府の統治をサポートし、その後の泰平の世の礎を築いた人と言っても過言ではありません。
この人の聡明ぶりと、その実績を解説していきます。
松平信綱は慶長元年(1596年)、徳川家の家臣・大河内久綱の長男として誕生しました。その幼名は「三十郎」。
幼少の信綱が使った短刀と硯箱が所蔵されている氷川神社
そして慶長6年(1601年)、6歳となった信綱は、叔父の松平正綱の養子となりますが、この時のエピソードが一風変わっています。
ある日、正綱のもとにやってきた信綱は、「養子にしてほしい」と頼み込みます。
正綱が「そなたはまだ幼少の身なのに、なぜ養子にしてほしいのか?」と訊ねると、
「大河内姓では、御上の近習になるのは難しいですが、松平性になればお側でお仕えできるかもしれません」と答えたそうです。
つまり、既に6歳の時点で、信綱は御上のもとに仕えることを考えていたのです。
それで正綱が養子に迎えると、信綱はとても喜んで、自ら「松平三十郎」と名乗るようになったとか。
お釈迦様などがそうですが、偉人というのは、えてして幼少期のエピソードが脚色されたり盛られたりするものです。
上記のエピソードが本当なのかどうか、子供だった信綱が本当に自分の意志でそんなことを言ったのかは分かりませんが、こういう逸話が残るほど、後の松平信綱は「伝説的人物」だったということでしょう。
■小姓を経て大名へ
さて慶長9年(1604年)、次期将軍である徳川秀忠に嫡男・家光が誕生すると、9歳の信綱は家光付きの小姓となります。小姓とは雑用係のことで、年若い少年が請け負っていました。
この頃のエピソードでも、興味深いものがひとつあります。
ある日、父・秀忠の寝殿の軒に雀が巣を作ります。
すると家光は、雀のひなを欲しがりました。

信綱は「何とかしなければ」と考え、夜になるのを待って寝殿の屋根に登り巣を取ろうとします。
しかし、誤って落ちてしまい、運悪くそれを秀忠に見つかってしまいました。
秀忠に「誰の指図で参ったか」と問い質されますが、信綱は「私が雀の巣が欲しくてやったのです」としか答えません。
うすうす事情を察していた秀忠でしたが、あえて信綱を問い詰めることにしました。
彼を大きな袋に入れて口を縛り、柱に括りつけます。そして翌朝、秀忠は再び「誰の指図か」と尋ねます。
しかし信綱は、昨晩と同じ返答を繰り返しました。
秀忠はすっかり感心して信綱を解放し、「信綱がこのまま成長すれば、きっと家光のまたとない忠臣になるだろう」と喜んだそうです。

徳川秀忠(Wikipediaより)
信綱は慶長16年(1611年)に元服し、正永と名乗ります。
改名の理由は、「正」という文字は実子が継ぐべきだと考えたからです。ここに「松平信綱」が誕生しました。彼のこの名前も、忠心から物事に筋を通す性格ゆえのものだったのです。
元和9年(1623年)、信綱は28歳で御小姓組の番頭に任ぜられます。また、家光の将軍宣下の上洛に従い、この時に「従五位下伊豆守」に任官されました。
この官位が、彼のあだ名である「知恵伊豆」の由来となります。
寛永5年(1628年)には所領が1万石となり、33歳で大名となりました。
【後編】では、天才政治家・「知恵伊豆」のその本格的な活躍ぶりを見ていきましょう。
【後編】の記事はこちら
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