■政治不安の申し子「倭寇」

「倭寇」という名前は、歴史の教科書でも目にしたことがありますね。「海賊」として紹介されており、室町時代の「勘合貿易」は倭寇への対応策を踏まえて行われたことも有名です。


しかしこの「倭寇」、単なる海賊と呼ぶにはけっこう複雑な素性の人たちだったのです。

本稿では、その実像に迫ります。

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倭寇(Wikipediaより)

日本人が倭寇として明や朝鮮を襲うようになったきっかけは、鎌倉時代中期の「元寇」から始まった東アジア情勢の混乱が原因と言われています。

中国では紅巾の乱が原因でモンゴル帝国が衰退し、高麗は元との長い戦いのため疲弊。こうして大陸・半島では社会不安、政治の混乱が続いていました。

一方、日本では鎌倉幕府が滅亡して南北朝の争乱が続き、北九州の御家人や農民が窮乏していました。

そんな中、倭寇は九州北部の島々を拠点として活動していたといいます。

その実態は、壱岐・対馬・松浦地方の土豪や商人、漁民を中心に結成された「水軍」で、それに高麗の海賊も加わった武装集団でした。

彼らは、朝鮮半島や明の沿岸部分を頻繁に襲撃し、略奪行為を繰り返していたといいます。

島や沿岸部に住む人々にとって、海賊行為は生計を立てる手段でした。貧しい土地で畑を耕すよりも、得意の船を使って周辺を略奪する方が手っ取り早かったのです。

また、倭寇が活躍していた南北朝時代は、九州地方は戦乱の舞台でもありました。


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よってそこに住む人々は、戦争に必要な兵糧を確保するためにも、大陸へ行き略奪を働かざるを得なかった部分があります。

略奪だけではありません。倭寇たちは、たびたび商船から通行料を取ることもありました。

■貿易体制の整備で鎮静化

室町時代初期(南北朝時代)になると、倭寇はますます活発になります。高麗と明は、その狼藉ぶりにだいぶ手を焼いており、明の太祖などは倭寇取り締まりを理由に1371年に海禁令を出しているほどです。

倭寇は簡単に取り締まれるような相手ではなかったのです。

しかしそんな倭寇も、14世紀の終わりごろになると少しずつ勢力が衰えていきます。

理由は、東アジア情勢が安定したことでした。1392年に李氏朝鮮王朝が成立し(ちなみに李成桂は、倭寇の戦いでも功績をあげています)、同年、日本でも南北朝が統一されたのです。

そして1404年には、明の永楽帝と足利義満の間で日明間の勘合貿易が開始されました。これにより、室町幕府は貿易の安全性を確保するために本格的な倭寇対策を行うようになります。

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足利義満(Wikipediaより)

さらに朝鮮王朝も、朝貢貿易に加えて民間貿易も行うようになり、富山浦・乃而浦・塩浦の三浦(さんぽ)に倭館を置き入港を認めるようになりました。
これにより、朝鮮に対する倭寇の活動も収まっていきました。

こうして一時的に鎮静化していた倭寇ですが、足利義満の次の将軍・義持が明の冊封下での朝貢貿易を嫌って、一時的に勘合貿易を停止します。

これで取り締まりが緩んだため、倭寇が再び活動を活発化させました。

これに怒ったのが朝鮮で、1419年には、倭寇の根拠地だった対馬が襲撃される事件が発生しています(応永の外寇)。

結局、後に日明間の貿易も再開され、この地域での倭寇の活動は徐々に沈静化ていきました。

ところが、話はこれで終わりません。16世紀に入るとこれまでと違った新しいタイプの倭寇が登場します。

■ニュータイプ倭寇は日本と無関係!?

このニュータイプの倭寇は台湾などの南方面で活動する集団で、その構成員も、日本人ではなく中国(当時の明)の人々でした。「倭寇」と言っても、日本とは関係のない人々です。

当時、明は正式な手続きを経た一部の商船との貿易だけを認めていました。

このため、多くの人々が貿易の道を閉ざされる形になってしまいます。そこで活発になったのが、明と貿易をしている東南アジアの国々を中継し、間接的に明と貿易する中継貿易でした。


こうして、南方面で商船が頻繁に行き来するようになったため、それを狙った略奪行為が行われるようになったのです。それが後期倭寇と呼ばれる新しい倭寇です。

しかし、16世紀後半になるとスペインやポルトガルの商人(南蛮商人)たちが東アジア地域に進出してきて、状況が一変しました。南蛮商人たちの圧倒的な武力と財力に押され、倭寇も弱体化していったのです。

加えて、日本でも戦国時代の争乱が次第に治まり、豊臣秀吉による全国統一が進んでいきます。1588年には、秀吉は海賊停止令(海賊取締令)を出して倭寇の取り締まりを西国大名に命じています。

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豊臣秀吉(Wikipediaより)

また秀吉は朱印船貿易による貿易統制も実施しており、この方針は江戸幕府にも引き継がれていきます。

こうして16~17世紀になると倭寇は衰退して姿を消していき、東アジア海域は朱印船や明船、ポルトガル船が活発に行き来するようになりました。

しかし、ならず者を完全に撲滅するのは難しく、今度は中国人の海賊やオランダ船が、そうした貿易船を襲撃するようになったそうです。

「倭寇」とひと口に言っても、200年ほどの歴史の中で活発化したり衰退したり、全く違う形で復活したりしていたことが分かります。

参考資料

  • 世界史の窓
  • NHK for School
  • まなれきドットコム

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