前編では、薩摩藩を収めていた島津家と、もともとはその老中だった伊集院家の関係に亀裂が入るまでの経緯を説明しました。

裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【前編】

さらにこの後、両者の間の溝は深まり、ついに内乱と暗殺にまで至ります。


■豊臣方にうまく使われた忠棟

1595(文禄4)年に全国で太閤検地が実施されると、伊集院忠棟は大胆な「知行配分」を行います。

彼は地頭職を中心にその所領を大移動させ、自分自身は島津一族の北郷氏の領地であった庄内(都城)8万石を手に入れたのです。

ちなみに当時の島津義久・義弘への割り当ては10万石、島津征久は1万石です。

しかしこの時は「文禄の役」の最中で、島津家の重臣の多くは朝鮮に出兵中でした。その間に勝手に領地を移動させられた者も多かったそうです。

もともと、根白坂の戦いでの軍規違反の件もあります。これでは忠棟が恨まれるようになるのも無理はありません。

もっとも、そもそも忠棟がこうした大胆な知行配分を独断で行えるはずもなく、彼はあくまでも豊臣方の命令を島津領内で粛々とこなしていっただけだったとも思えるのですが……。

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豊臣秀吉(Wikipediaより)

この時期の豊臣政権の統治手法として、大名の家臣に領地を与えて昇格させ、その人物に領地内の調整を任せるというものがありました。つまり、領内の事情をよく知っている者をこちら側に取り込んでうまく使い、実質的に領内を豊臣方の支配下に置いていくのです。

忠棟は、こうした形で「使われた」と言えるでしょう。

戦時中の裏切り行為や、この知行配分の調整のことがあって、忠棟は島津家から恨みを買いって危険人物扱いされるようになりました。


この時の当主である島津義弘に、次期当主である島津忠恒(家久)は、再三に渡り忠棟を取り除くよう進言しました。

しかし、今や忠棟は8万石を有する大名です。迂闊に手出しすると、豊臣政権に対する反逆と捉えられかねません。

■そして暗殺へ

事態が動いたのは1598(慶長3)年のことでした。秀吉が死去したのです。

これをチャンスと見た忠恒は、翌年の3月に京都伏見の島津邸に忠棟を呼びつけて、自らの手で斬殺しました。

この時の忠恒の言い分は、「当主である島津家をないがしろにしたので成敗した」というものでした。

この事件については、忠棟の妻が徳川家康に直訴しましたが、家康の調停によって忠恒はお咎めなしとされています。

そして、忠棟の嫡男である伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)はこの事件を受けて、領内の庄内都城で叛旗を翻しました。

これが、島津家の最大の内乱である「庄内の乱」の始まりでした。もともと伊集院勢は九州を制した島津勢の中核的存在です。戦いは長期化しました。


裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】


この乱は家康の調停によって治まるのですが、その後も伊集院家と島津家の対立は続き、忠真は暗殺されます。

一応、忠真の死は事故死ということになっています。しかし忠真に同行していた者もまとめてその場で殺されており、暗殺だったのは間違いないようです。

この件については、実行犯は後に切腹させられ、また島津家内でもこの件を口外してはならないという口止めがなされています。

最終的に、伊集院家は皆殺しにされてしまいました。

これが、戦国時代から江戸時代への過渡期に発生した、薩摩藩における伊集院家と島津家の争いの顛末です。

その後、薩摩藩では伊集院家は国賊扱いされました。しかし後に新井白石などは、忠棟のことを「薩摩を救った忠義の人」とも評しています。

参考資料

  • 戦国武将伝
  • 尚古集成館

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